black diary

にゃーん

『ロミオとジュリエット』第三幕第五場について

  1. 序論

 第2章では、腐敗する身体と永存する臥像との間において示されている対比について論じていく。第3章では、パリスが墓所の中でロミオの企みについて想像した部分の分析をきっかけに、Romeo and Julietにおけるレイプというテーマを論じていく。

 

  1. 身体/臥像

 柩に入れられず柩台の上に美しい姿のまま横たわるジュリエットは、もちろん観客席からよく見えるようにという演出上の意図があるのだろうが、同時に彼女は石棺の上に置かれる臥像の代理ともなる。”Where bloody Tybalt, yet but green in earth, / Lies fest’ ring in his shroud” (4.3.42-43) とジュリエットの想像の中で語られる、腐敗していくティボルトの死体とは違うイメージをジュリエットの身体は担わされている。

 

Death, that hath suck’ d the honey of thy breath,

Hath had no power yet upon thy beauty.

Thou are not conquer’d ; beauty’s ensign yet

Is crimson in thy lips and in thy cheeks,

And death’s pale flag is not advanced there. (5.3.92-96)

 

上はジュリエットの横たわる姿を見たロミオのセリフである。彼女は呼吸こそ止まっているものの、唇と頬にはまだ血色が留まっている。もちろん彼女はまだ死んでおらず生きているからこそその美しさを保っているのであるが。しかし、上の引用部分の”yet”という単語の繰り返しからわかるように、ジュリエットの身体もいずれは腐敗していくことがこの時点で同時に述べられている。 

 しかし、最終的にジュリエットはロミオとともについに臥像となり、その姿は美しいまま保存されることが示される。

 

For I will raise her start in pure gold,

That whiles Verona by that name is known,

There shall no figure at such rate be set

As that of true and faithful Juliet.

Capulet. As rich shall Romeo’s by his lady’s lie――

Poor sacrifices of our enmity ! (5.3.268-303)

 

臥像の材料として大理石でも他の金属でもなく黄金が選ばれた理由は、その豪華さはもちろん、他の材料に比べ際だって腐敗しにくいという性質が重要なのだろう。腐ってしまう生身の身体は黄金の像に置換された。もしくは、黄金の像が置かれることにより、むしろこれから腐り落ちてゆく若い恋人たちの身体性は一層強調されてしまったのかもしれない。ロミオと血まみれのジュリエットの死体は、幕が降ろされた後に黄金の像の下朽ち果てていくこととなる。

 

  1. Necromancer/Necrophilia、レイプ

 

It is supposed the fair creature died ―

And here is come to do some villainous shame (5.3.51-52)

  

 パリスは、ロミオが「『不埒な侮辱を加えるために』死体の一部を悪魔術に使うというようなことを考えている」と大修館版は説明している。ロミオがジュリエットの死体を使いネクロノミコンを企んでいるのではないかとパリスは想像しているのだということである。これは、シェイクスピアRomeo and Julietの材源とした、Arthur BrookeのThe Tragical Historye of Romeus and Juliet (1562)を振り返ってみるとよく分かる。シェイクスピアRomeo and Julietにおいて、「物語の筋や登場人物を借りただけではなく、ブルックの用語や言いまわしをも数多く利用している」(大修館版, 10)。

 

The watchemen of the towne, the whilst are passed by,

And through the gates the candel light within the tomb they spye :

Whereby they did suppose, inchanters to be come,

That with prepared instruments had opened wide the tombe,

In purpose to abuse the bodies of the ded,

Which by theyr science ayde abusde, do stand them oft in sted. (Brooke, 2793-2798)

 

ここでは、”The watchemen of the towne”が想像する内容が”science”のために死体を”abuse”するということがはっきりと分かる。Romeo and Julietにおいてパリスが想像している内容の一つとして、ロミオがしようとしていることはネクロノミコンであるということは確実に言えるだろう。しかしこの”some villanious shame”とは、同時にネクロフィリアでもあるのではないだろうか。The Tragical Historye of Romeus and Julietの該当部分において想像を膨らませているのは”The watchmen of the towne”であるが、Romeo and Julietでは墓場でロミオがパリスを刺す場面が新たに挿入されたことにより、妄想を膨らませる人物がパリスへと変更されている。このことが、この場面に異なった意味合いをもたらす。

 

Sweet flower, with flowers thy bridal bed I strew――

O woe, thy canopy is dust and stones ! (5.3.12-13)

 

パリスにとってジュリエットが横たわる柩台は”bridal bed”、結婚するはずだったジュリエットと新婚の初夜を過ごすべき場所である。つまり、パリスがジュリエットとセックスすべきところである。場自体が、性的な意味に満ちている。”Can vengeance he pursued further than death” (5.3.54)”とパリスが言う時、彼はロミオが復讐を込めて死体をレイプするとも考えている。

 ところで、誰の死体に対し「不埒な侮辱を加える」のというだろうか。マキューシオを殺したティボルト自身に報復のレイプをするのだろうか。それとも、マキューシオを殺したティボルトを悔しがらせるために、ティボルトの目の前でジュリエットをレイプするのだろうか。あるいは、”bloody sheet”(5.3.97)をまとったティボルトの方はロミオによりすでに「レイプ済み」で、あとはもう一人の方がレイプされるのを待つのみ、というふうにも読むことができる。この場合、墓場に横たわるロミオ以外の三つの死体が全て刺傷により生み出されたものであるということは実に興味深い。ティボルトとパリスはロミオにより刺し殺され、ジュリエットはロミオの短剣で自らの胸を突き刺した。そして殺人犯/レイプ犯・ロミオは一人だけ毒を飲むことで命を絶ち、自らが生み出した三つの死体のそばにその身を横たえることとなる。少なくともジュリエットについては性的な意味合いが非常に明確に表れている。彼女は”This is thy sheath ; there rust, and let me die.” (5.3.169)という言葉を最後に自殺するのだが、この言葉の意味はつまり「あなたの鞘(ロミオの刃/ペニスが収まるべきジュリエットの鞘/膣)はここです」ということである。また、ジュリエットが剣を刺す場所も象徴的である。

 

This dagger hath mista’en, for, lo, his house

Is empty on the back of Montague,

And it mis-sheathed in my daughter’s bosom. (5.3.202-204)

 

上の引用通り、ジュリエットは自分の胸に剣を刺している。ところで、Romeo and Julietのすぐ後の書かれたと思われるA Midsummer-Night’s DreamRomeo and Julietと共通するところが大きく、二作品は「姉妹篇あるいは「二連祭壇画」のようなものだといわれている」(大修館版, 8)。以下に引く部分はA Midsummer-Night’s Dreamの第二幕第二場でハーミアが眠りから目を覚ましライサンダーを探す箇所である。

 

Help me, Lysander, help me ; do thy best

To pluck this crawling serpent from my breast.

Ay me, for pity! What a dream was here!

Methought a serpent eat my heart away,

And you sat smiling at his cruel prey. (A Midsummer-Night’s Dream, 2.2.145-150)

 

ハーミアは自分の胸の上に蛇が這っている夢を見ている。この蛇はファリックなシンボルである。また、ハーミアは別の箇所でディミートリアスライサンダーを殺したと思い込み以下のように彼を責める。

 

Durst thou have look’d upon him being awake,

And hast thou kill’d him sleeping? O brave touch!

Could not a worm, an adder, do so much?

An adder did it ; for with doubler tongue

Than thine, thou serpent, never adder stung. (A Midsummer-Night’s Dream, 3.2.70-73)

 

ここで彼女はディミートリウスがライサンダーをレイプしたのだと妄想しているが、蛇の二枚舌でライサンダーを「刺した」と言っている。やはり、1つ上の第二幕第三場からの引用においてもハーミアが恐れているのは彼女の「胸」を蛇が「刺す」ということであろう。刺すという行為がRomeo and Julietにおける「レイプ」の実行される様と同期していて興味深い。

 レイプという主題はバルコニーの場面にも登場している。この場面におけるロミオの行為は、ジュリエットの寝室に忍び込んで、ジュリエット心を盗むという擬似あるいは象徴的レイプに近いところもあって、必ずしも全面的に幸福な瞬間とも言えないところもある。

 しかしレイプについて、特にジュリエットの受ける「レイプ」について話すとき、決して彼女が男性の持つ権力に翻弄されなすすべもなく死んでいったと言っているわけではない。ジュリエットは、ロミオの短剣にレイプされることを自ら欲望している。彼女の死はパンゲのいうところの「意思的な死」だ。もちろんこれは、「レイプされてジュリエットも楽しんでいたのだろう」というような(レイプ被害者を指差して発せられる、現実にあるような)下世話な勘ぐり、セカンドレイプとは違う。彼女の欲望は、ロミオの欲望によって生み出される単なる補完物として書かれてはいない。もちろん2人の恋はロミオの呼びかけにより始まったものではあるのだが。それでもなお、彼女の力強さ、前向きな姿勢はこれまで彼女を抑圧してきた父権制への反抗を感じさせる。彼女は主体的に欲望し、能動的に受動性を自らの内に導き入れることのできる立派な主人公である。

 

  1. 結論

 物語の最後で建てられることが約束される黄金の像はジュリエットとロミオに、永存する身体と腐敗していく身体とを同時に付与する。また、ロミオによりジュリエットと数々の男たちが「レイプ」されている。その中で、ジュリエットが性的に欲望する様が生き生きと描かれている。

 

映画『キングコング:髑髏島の巨神』を読む

  1. 序論

 本論2.1、2.2、2.3では映画『キングコング:髑髏島の巨神』(Kong: Skull Island, 2017年)に現れる様々な二項対立、またはそれらを媒介するものたちについて分析する。2.4ではマーロウ・マーロウの妻・軍兵という三角関係の考察を通し、本映画に対してクィア・リーディングを試みる。

 

  1. 本論

2.1 見る/見られる

 視線というテーマはこの映画において重要である。本編はマーロウの目玉にカメラが飛び込んで始まり、コングの目玉にカメラが飛び込んで終わる。また、度々銃のスコープから覗く画とカメラのファインダーから覗く画が重ねられる。パッカード大佐は既に倒した蜘蛛の目を撃ち、コングとは文字どおり睨み合う。ウィーヴァーはスカルクローラーの目を照明弾で撃ち抜く。1)

 しかしこの映画の主人公、コンラッドは見る/見られるという主導権争いに対してパッシヴである。コングとウィーヴァーが見つめ合う時、コングを見ている彼の視線は宙に浮く。また、彼はグレイフォックス号が出港する際、他の登場人物らが進行方向を見つめる中一人だけそっぽを向いている。エンドロールの後の場面ではマジックミラーの見当違いな方向を覗き込んでいる。

 

2.2 現在/過去

 現在と過去という二つの系列が存在するようである。現在の系列には調査隊、ランドサットなどのテクノロジー、流行の音楽、アメリカなどが連なる。過去の系列にはコングを始めとする”ancient species”、原住民などが連なる。ランダは島について、”a place where myth and science meet”である説明する。科学を携え現在の系列からやってきた要素が「神話的」な過去の要素と遭遇、衝突する中で物語は展開する。また、過去の系列はより多層的で、第二次世界大戦、終わったばかりのベトナム戦争2)も含まれる。

 

2.2.1 調査隊隊員と過去を媒介するものたち

 現在の系列に属する隊員たちの中には、特定の媒介物を通して過去の記憶に引きずり戻される者たちがいる。パッカード大佐はベトナム戦争で部下を失った埋め合わせを求め続けている。彼を過去に呼び戻す媒介は、木箱に入った勲章と死んだ部下のドッグタグである。コールもまたベトナム戦争の記憶にとらわれている。彼は殺害したベトナム人の農民のライフルを携帯し続ける。コンラッドは、軍人であった父が出征する時に列車から放ったライターを持ち続ける。

 

2.2.2 媒介者:ハンク・マーロウ

 WW2からやってきたサンタクロースことマーロウは、彼の老いた身体そのもの、そして空白の期間に関する知識の獲得により現在と過去を媒介する。また、彼は原住民と調査隊の間を取り持ち媒介者として機能する。

 さらに、彼は既に死んでいる過去の軍兵のイメージを過去からスクリーンに呼び戻す。もはやその場には存在しないのに、映像内映像の枠を取り払い、画面を乗っ取って鮮明に姿が映し出されるのは、軍兵のみに許された特権である。

 

2.2.3 媒介者:グンペイ・イカリ

 艦橋の部屋の壁に貼られた日本旗の寄せ書き。グレイフォックス号に積まれた零戦の栄エンジン。手書きの「む」の文字。マーロウの飛行服の背部3)日章旗を想起させる赤い円の中に書き込まれた「軍兵」の文字。マーロウの回想によって映像として呼び戻されるその姿。コングが大木から枝を払う時の、日本刀を抜くような仕草。他にも沢山ある。彼自身の姿が映るシーン自体は非常に短いものの、彼の痕跡は映画のいたるところに散らばっている。

 マーロウの回想として挿入される軍兵の顔は少々特異である。軍兵の顔のクロースアップは、現在進行形の時間軸に沿って組み合わされる他のショットからあからさまに分離しているのだ。軍兵の「遺影」が突如挿入される。その姿はマーロウの年老いた姿と対照的に若いままである。回想として挿入される映像は静止に近く写真的であり、冒頭のチェイスシークエンスとは対照的である。チェイスは砂浜→ジャングル→崖の上と舞台を移しつつ動的に展開される。しかし、回想ではその流れを分断する形でジャングルで立ち止まり対峙するマーロウと軍兵が静的に映される。また、軍兵が照準を外す動きをすることも非常に興味深いということを指摘しておこう4)。ここで重なるマーロウのセリフは”If you take away the uniforms…and the war…Then he became my brother.”であるので、軍兵が敵意を失った場面が崖の上で短剣を取り落とした場面から移動されているようにも思える。事実としての過去からもまた、このイメージは遊離している。島の地形としては特殊な地形、白い砂浜と青い空を背景に映し出された軍兵の姿は静止したまま保存され続ける。回想として思い起こされた軍兵は、その静止的な性質のために現在からも過去からも遊離したイメージとなり、それゆえに現在と過去の回路をつなぐ媒介となりうる。

 

2.3 現実/虚構

 

2.3.1 物語内現実/物語内虚構

 軍兵は実はもう一度、今度は物語内現実に実体を持って呼び出される。その依り代となるのはコンラッドだ。コンラッドはここで、物語内虚構と物語内現実を媒介することとなる。

 マーロウはイメージの中でのみ鮮明に軍兵を顕現させる。しかし物語内現実に引っ張り出すことには失敗している。これは窪地の場面で明らかとなる。マーロウが日本刀を振り回す時、日本刀は武器としてあまり効果的に作用していない。では誰が日本刀を握った時に見せ場が来るかというとそれはマーロウではなくコンラッドなのであるが、詳しく見ていこう。

 スリフコが爆炎により跳ね飛ばされ、彼の荷物に含まれていた緑色の毒ガスが噴出てしまう。気を失ったスリフコを救助するためにコンラッドは駆け寄り、”Marlow! The sword!”とマーロウに日本刀を投げてよこさせ、地面からガスマスクを拾い上げて被る。ここから彼の大立ち回りが始まる。彼は緑色のガスを背景に、刀を振るって怪鳥を殺し、ガスマスクを外し、日本刀を地面に刺して手放す。

 この場面において1つ違和感があげられる。コンラッドが映画の中でもっとも主人公らしい立ち回りをする場面の1つにおいて、仮面をかぶってしまうのである。これは一体なぜであるか。コンラッドはガスマスクというペルソナを被り、「軍兵」なる日本刀を身につけることにより、自分の身体を依代として軍兵を呼び戻す。カメラがコンラッドのガスマスクの内側から情景を捉えているカットがあるが、この視界は飛行眼鏡の視界と同期する。前述した通り、全編を通してコンラッドは見る/見られるという駆け引きにおいて非常にパッシヴな要素を与え続けられているのだが、この場面はコンラッドの「見る」という行為が具体的に映し出されるかなり珍しい箇所である。あからさまにコンラッドの視界と同期している映像はおそらくこの箇所のみである。むしろ、この視界はコンラッドの視界というよりは軍兵の視界なのであろう。スカルクローラーが消化できず吐き出した、人骨も含む骨が大量に落ちている場所、軍兵のskullも吐き出されたかもしれない墓場5)において軍兵の幽霊が実体を持って呼び戻される。

 

2.3.2 現実/映画

 コンラッドはもう1つの現実と虚構、つまり観客のいる側である現実と映画という虚構もまた媒介している。映画の本編とエンドロールが終わると、スクリーンが暗転したまま“You just gonna sit there? In the dark. You are enjoying this, right?”というコンラッドの音声が流れ出す。その直後にマジックミラーを覗き込みながら話すコンラッドの姿が映し出されることで初めて状況が明らかにされるのであるが、同時に、上の引用部は明らかにこの映画の観客に向けて発話されたものでもある。”you”とはこの映画を楽しみながら観ているであろう観客、”the dark”とは観客が座る劇場の暗闇を指している。エンドロールが終わり、さてそろそろ立ち上がろうという瞬間に流れる音声であるので、余計に観客の周囲の暗闇は意識される。コンラッドはここで、少々不穏な形で第四の壁を超えようとしている、つまり、現実と映画を媒介している。

 現実と映画が媒介されている場面は他にもある。ヘリコプターが島に爆弾を落としてそこかしこを焼き払う、スペクタクル性が強調されている箇所だ。ここで、サングラスをかけてニヤニヤ笑うアメリカ兵の顔のクロースアップが映し出されるのであるが、その直後に突如として根元から引き抜かれた木がフロントガラスに飛び込んできて彼の乗り込んでいたヘリコプターは墜落機第1号となる。彼のサングラスには爆炎が反射している。彼はスクリーン上で繰り広げられる爆発のスペクタルを気持ちよく眺めている観客のメタファーだ。ヘリコプターに衝突する木はスクリーンの奥から手前側、座席側へと飛び込んでくるように映されている。ここでもまた、現実と映画の出会いは観客にとって居心地の悪い形で描写されている。さらに追記しておくと飛び込んでくる木の描写は3D映画としてより強調される構図であり、飛躍するが、アメリカ兵のサングラスをかけた姿は映画の観客が3Dメガネをかけた姿にも重ねられるかもしれない。

 

2.4 クィア・リーディングの試み

 マーロウを中心に、父権制の構図が現れている。しかしその父権制は、その内部に自己を転覆させうる要素を含んでいる。まずは父権制の構図について詳しく見ていく。

 作中には二枚の女性---二人は二人とも名前を持たない---の写真が出てくる。一枚はマーロウの妻の写真、もう一枚は軍兵と何らかの関係があると思われる日本人女性の写真だ。マーロウ・軍兵・二枚の女の写真は一見下のような「欲望の三角形」を構成しているようである。

 

 

 軍兵の「女」/「女」の写真/マーロウの「妻」

   ↗︎ to have        ↖ ︎to have

    軍兵   ←   視線   →   マーロウ

                     to be

 

 

軍兵とマーロウは「同じ」欲望の対象物を持っている。軍兵とマーロウのどちらが欲望の主体もしくは欲望の媒介者となるかは交換可能である。上図における”to have”の欲望はheterosexualな欲望であり、軍兵とマーロウの間を取り持つ”to be”の欲望、同一化の欲望はhomosocialな欲望であると説明される。

 また、マーロウが実の息子とちょうど同じ年頃のスリフコに”son”と呼びかけ、何としてでもコングを倒そうとするパッカードに反抗するよう説得する場面がある。マーロウの試みは成功し、スリフコはパッカードに銃を向ける。軍という父権制における「父」であるパッカードを倒したスリフコは、”son”としてマーロウと共に新たな「父子関係」を築く。勿論これは完全なものではなくこの瞬間だけ成り立つ関係であるが、この場面はマーロウが帰還後に実の息子を手に入れることをforeshadowしている。帰還後マーロウは妻と息子を再獲得し、再び父親の座に戻り、父権制の物語の環が閉じるかに見える。

 しかし、マーロウにはもう少し複雑な造形がなされているように思われる。マーロウの妻が物語の前面に出てくるとき、必ず、軍兵の痕跡がセットで出てくるというのは興味深い。グレイフォックス号6)の上でマーロウが妻の写真を見ながら”I got a wife. Had a wife. Have a wife? “と語るとき、カットバックで提示されるコンラッドとウィーヴァーのカットでは、二人の手前側にマーロウと向き合う形で、木の板に書かれた「軍兵」の文字の一部が映し出される。マーロウは「軍兵」の文字を視界に入れながら妻の話をしている。また、マーロウが妻の写真を見つめながらWe’ll meet againを歌う時、妻の写真のすぐ側には軍兵のドッグタグが添えられている。そして、妻と再会したのちには日本刀をソファーに置き野球観戦をする。これらの「軍兵」の痕跡はどれも一瞬のみ、一部のみ映し出されるものであり、非常に分かりづらく、半ば隠しているとでも言って良い演出である。heterosexual(wife)もhomosocial(”brother”)も同時に手に入れる・取り戻すことができましたというのならば、隠す必要はないのであるが。

 ここで、軍兵の痕跡が妻という存在と「秘密裏に」立ち位置を巡ってせめぎ合う時、そこには新しい三角形が立ち上がっている。

 

    マーロウ

to have↗︎   ↖︎ to have

  軍兵     妻

 

男と女が一人の男をめぐって対立し、ライバル関係に置かれることになる。軍兵とマーロウの間の”to be”の欲望はいつの間にか”to have”の欲望へとすり変わり、そこにはクィアな目配せが忍び込むのだ。 

 

  1. 結論

 本映画には見る/見られる、現在/過去、現実/虚構といった幾つかの対立軸があり、それを媒介するものたちが興味深い振る舞いをしている。また、解釈の一つとして、それぞれ媒介者の1人であるマーロウと軍兵との間にはクィアな眼差しを読み取ることも可能である。

 

 

1) 論旨と直接には関係ないが、冒頭でマーロウが太陽を背にして落ちてくることに端を発し、マーロウの目玉、ウィーヴァーのネックレスのチャーム、「日の丸」、コングが背にする夕陽と月、イウィ達が初めて出てくる場面の円形の門(これは中国の建築様式で”moon gate”と呼ばれている)、そしてコングの目玉と「丸いもの」がメタファー的に連なって現れている。

 

2) ちなみに、ベトナム戦争を描いた映画『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, 1939年)の原作はジョゼフ・コンラッドによる『闇の奥』(Heart Of Darkness, 1902年)であり、語り手はマーロウである。コンラッドとマーロウという、『闇の奥』と『地獄の黙示録』を連想させる名前が用意されている。

 

3) 冒頭の場面ではマーロウのジャケットの当該位置には別の意匠が存在しているのだが、それをわざわざ赤く塗りつぶした上に「軍兵」という文字が書き込んである。また、設定画の段階ではマーロウは旭日旗をスカーフとして首に巻いている。赤い丸の中に書き込まれた「軍兵」の文字というモチーフは、グレイフォックス号に設置された木の板にも登場している。ちなみに、どちらも「軍」という字は横棒が一本足りず間違っている。

 

4) そもそも冒頭においてジャングルに入る前、砂浜を走っている時点で軍兵の銃が弾切れしたことを示す音声が挿入されているので、ここで銃を構えていること自体が、ミスなのか意図的なものなのかはわからないが不自然ではある。それを置いておいても、銃の照準を外すという軍兵の動作自体は演出された「不自然さ」であると考えられる。

 

5) 回想に入る直前で示されている通り、マーロウは軍兵のドッグタグを回収してそれを軍兵の遺品と思われる小箱に紐で括りつけている。チャップマンのドッグタグが回収されたのと同じような方法でマーロウはドッグタグを回収したのだろうか。ちなみに些末な点であるが、旧日本海軍ではドッグタグを用いることはかなり稀であり、また、小判形という形状が旧日本陸軍のそれに酷似していることから、考証にミスがある可能性が高い(零戦に搭乗していた軍兵はもちろん旧日本海軍所属である)。似たようなミスとしては、例えばマーロウの乗っていたP-51のインヴェイジョン・ストライプスが挙げられる。しかし出演者インタビューにおいて、衣装を着用したままのWill Britain(青年時マーロウ役)の側に座るMIYAVI(軍兵役)が小判型のドッグタグを下げていることから、映画の中の設定としては軍兵はドッグタグを付けていたのであろう。

 

6) グレイフォックスはコナミのアクションゲームであるメタルギアシリーズの登場人物の名前として引用されているのだろう。『キングコング:髑髏島の巨神』の監督であるJordan Vogt-Robertsは『メタルギアソリッド』(METAL GEAR SOLID, 1998年)の映画版制作に現在監督として関わっている。『メタルギアソリッド』でグレイフォックスは「サイボーグ忍者」として日本刀(高周波ブレード)を装備して主人公のスネークの前に現れる。詳述は省くが非常にクィアなキャラクターである。

映画『不屈の男 アンブロークン』における歪んだジェンダー観

  1. 序論

 『不屈の男 アンブロークン』(Unbroken, 2014年)は日本軍による俘虜の虐待を扱った映画として、日本でも話題となった作品である。日本軍の残虐性を無闇に誇張する「反日」的な作品であるとして、上映中止を求める運動が起こったくらいである。だが実際には、これらの右翼的な議論は拙劣なものであり、真剣に取り合うべき代物ではなかった。しかし、それらの議論とは別の視点---特にジェンダー論的視点---から見て、この『不屈の男 アンブロークン』はイノセントであるとは言い難い、差別的な問題をはらんだ作品であったことは指摘されなければならないであろう。

 本映画は日本軍の犯した俘虜への虐待という罪を、ワタナベの男性性の「欠如」という”sin”にすり替え、あまつさえその”sin”を西洋的な「正しい」男性性の体現者、キリストの姿と結びつけられたルイに断罪させるという構図を展開しているのである。以下、本論で詳しく論じていく。

 

  1. 本論

2.1 ルイ

 主人公ルイの生い立ちは映画の前半で語られる。ルイはイタリア系の出自を持ち、かつてはそれが原因でいじめられていた。彼は隠れて酒を飲み、補導されることすらあった。しかし彼は兄の勧めで陸上を始め、才能を開花させていくうちに周囲にも認められるようになっていく。彼はついに、オリンピックの陸上競技のアメリカ代表選手として選出される。訓練により培われたルイの身体は、俘虜であるルイを虐待するワタナベと対比に置かれる中で、健康的な肉体として男性性・キリスト教的な正しさを次第に重ねられていくこととなる。 ルイが異性愛者であることは、セリフと映像の両方により繰り返し言及される。彼は爆撃機の同乗者に”I ain’t goin to a bar with you “dame magnet”. You confuse all the broads.” という言葉を発する。また、少年時代のルイはベンチの下に隠れて女性の太ももを覗き込もうとする。さらに、捕虜として東京のラジオ局の建物に入る場面で、彼は白いワンピースを着た女性がエレベーターから出てくるのを目で追いかける。

 

2.2 ワタナベ

 

He was a beautiful crafted man, a few years short of thirty. His face was handsome, with full lips that turned up slightly at the edges, giving his mouth a faintly cruel expression. Beneath his smartly tailored uniform, his body was perfectly balanced, his torso radiating power, his form trim. A sword angled elegantly off of his hip, and circling his waist was a broad webbed belt embellished with an enormous metal buckle. The only incongruities on this striking corporal were his hands―-huge, brutish, animal things that one man would liken to pows. (Hillenbrand 236)

 

 上に引いたのは原作の、第23章Monster冒頭の一部である。監督のアンジェリーナ・ジョリーはインタビューにおいて原作のこの部分に触れており、”I think Watanabe was sick but he was very very educated. He was very intelligent. And he was, he’s described in the book as a beautifully crafted monster.”(Universal Pictures 0:14-0:25)と述べている。「美しい男」ワタナベが”sick”であり”monster”である所以はどこにあるのか。映画においてそれは、男性性の「欠如」として描かれている。

 

2.3 ”The Bird”

 俘虜の1人であるミラーはワタナベについて、”Apparently, he grew up wealthy, spoiled. Wanted to be an officer. Expected to be, too. Was denied. A great humiliation for him, not making the grade.”という分析をしている。ワタナベはofficerでなく下士官、伍長でしかないことにコンプレックスを抱いている。更に、映画ラストで明かされるのだが、ワタナベの父は海軍将校である。彼は父のような男になれない屈辱に苛まれている。彼は父権制の中で男性性としての階級を得ることのできないのである。

 また、俘虜たちによりワタナベにつけられた”The Bird”という、史実上の渡邊もまた同じように呼ばれていたあだ名自体が多分に示唆を含んでいる。birdという単語を調べると、Oxford English Dictionaryには”d. A maiden, a girl.  [In this sense bird was confused with burde, burd n., originally a distinct word, perhaps also with bryd(e  bride n.1; but later writers understand it as fig. sense of 1 or 2.) In mod. (revived) use: a girl, woman (often used familiarly or disparagingly) (slang).”とあり、また用例一覧を見ると俗語としての意味はWWII時にはすでに使われていたようである。史実においてこのあだ名が選ばれた理由については断じることはできない。しかし映画において、以下に続けて挙げていくワタナベの男性性の欠如としての描写を意識した時、これは象徴的な名付けである。俘虜の1人であるハリスの言う”the names we’d like to call him”とは、彼が(男性らしさを欠いているという消極的な、差別的な意味において)「女性的」であること、もしくは、彼が誰かの”girlfriend”になりうるような特質を持つ者であるということをより直接的に示すような呼び名なのであろう。

 

2.4 竹刀、シンデレラ劇

 柔らかな物腰を、欠けた男性性を補うようにワタナベは竹刀を振りかざして捕虜達を虐待する。この竹刀はファリックなシンボルである。原作には渡邊が軍刀を持っている描写と竹刀を持っている描写の両方があるのだが、映画においては竹刀を持っている姿しか映し出されない。むしろ、彼が持っている竹刀は軍刀ではないということが強調されている。

 このことは劇中劇として挿入される、俘虜たちが演じるシンデレラ劇の場面において説明される。観客のルイが画面向かって左側に目線をやると、次のカットではその視線の先に立つ軍人2人が映される。同じカット内でカメラは説明的に上から下へ、顔から腰へと動く。腰には軍刀が下げられている。そして舞台を映すカットが挟まったのち、今度は観客席最後列に並ぶ日本軍人たちが前から映されるカットが入る。着席している中でもさらに後ろに立って並んでいる軍人たちの中でも、少なくとも腰が映っている者はみな軍刀を持っていることが確認できる。しかしワタナベは軍刀でなく竹刀の上に両手を置いている。その場において明らかに軍刀を所持していないのはワタナベ1人だけである。この演出により彼の握りしめる竹刀の、持ち得ない「男性器」の代替物としての象徴性がさらに高められている。

 また、俘虜たちの女装劇は衣装・セリフ・身振りなどにより滑稽さを強調しているが、かなり蔑視的なものといえよう。不完全な女装はジェンダー分割を正当化し、境界を侵犯することはできないとの言説を強化する。さらに、その規範から外れた「恥ずかしい男」を笑い者にする。このシンデレラ劇を背景に、クィア・ワタナベはルイの隣に腰掛けて自らの昇進を報告する。劇中劇という装置により間接的に笑い者にされているのは、「恥ずかしい男」ワタナベであるのに。

 

2.5 競争の場面

 ワタナベはオリンピック選手であるルイに目をつけ、日本兵と競争するように命じる。しかし、体を弱らせていたことが誰の目にも明らかなルイは当然のように日本兵に敗北する。そこでワタナベはゴールに倒れこんだルイを覗き込み、”You fail. You are nothing.”と言う。スポーツ選手としての(現在は痩せ衰えているが潜在的には)健康的な肉体、男性らしさを持つルイに「嫉妬」して彼を敗北させることで、ワタナベは自らの男性性の欠如を間接的に否定しようとしている。

 

2.6 夜這い

 ある晩ワタナベが薄暗い俘虜宿舎に突然現れてルイに鞭を振るう。かと思うと、出血する傷口にガーゼを差し出してルイを困惑させる。”Why do you make me hit you?”とルイに問いかけるワタナベは再びルイを殴りつけ、失神させる。ちなみにワタナベが鞭を構える時、鞭は彼の股間から垂れ下がっているようにも見える。この鞭もまた、竹刀と同じように男性器のメタファーである。

 この矛盾に満ちたワタナベの言動を精神分析学的に分析してみると以下のようになる。無意識のイメージを構成するtopological、そしてdynamicな要素の組み合わせを通じ、作品・テクストにおける矛盾した要素の共存の底を覗き込むことで暗部の揺らぎが垣間見えるのだ。

 Topologicalな要素として、この場面は薄暗い宿舎、暗所において展開されることがあげられる。(概して無意識のイメージは下方、周辺、暗所、未知領域、具体的には地下室、秘境、クローゼットなどといったイメージにより表象される。)また、dynamicな要素として、ワタナベのルイに対する暴力、つまり抑圧作用と噴出のイメージがあげられる。そしてワタナベの行動は二点において矛盾している。暴力を振るっておいてガーゼを差し出す。殴ってくれだなんて頼んでもいないのに、なぜ私に殴らせるのかなどという理不尽な問いかけをする。

 ここから見えてくるワタナベの暗部とはどのようなものであるか。彼のsuper egoは「男性らしく振る舞え」というもの、egoは「男性らしく振る舞うための階級が与えられていない」というものである。では、彼のidにはどのような欲望が渦巻いているか。

 ここで、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」を踏まえ、欲望の主体「S」(Subject、ワタナベ)、欲望の対象・目標「O」(Object、ファルス)そして欲望を媒介する他者(Mediator、ルイ)の三者が成す三角関係を見てみる。

 

図 1

 

ルイは既にファルス/異性愛的な欲望/健康的な肉体/階級を所有している(少なくともワタナベは意識のどこかのレベルでそのように思っている)。ワタナベがファルスを欲望するとき、それは、ファルスに内在する性質のためではなく、ルイがファルスを所持しているからである。ワタナベがファルスに”to have”の欲望を向けるとき、同時に彼はルイに対して”to be”の欲望を向けている。これはジェンダー批評的に解釈すれば、homosocialの欲望と言える。

 そこで、ワタナベのidにある欲望の候補として、まずhomosocialの欲望が挙げられる。敵国の軍人であるルイと仲良くなりたいというものだ。俘虜収容所から解放する代わりに日本を礼賛するプロパガンダをしてくれとの提案を拒否したルイが東京のラジオ局から送還されてきた時、ワタナベは”I saw it in your eyes, the first day. I thought, this man will be my friend. But…enemy of Japan… you do not listen. You do not do what is asked of you. “とルイが自分の友となりうる可能性を口にする。だが、ルイは「日本の敵」であると。homosocialの欲望(とその失敗)と読める。しかし、ここで考え直さなければならないことは、欲望は自身で言語化できた時点で既にidの領分には止まってはいないのである。では、未だ言語化されていないワタナベのidの欲望とは一体何なのであるか。

2.7 糞尿汲み取り

 ルイが糞尿を汲み取る時、ワタナベは彼のことを盗み見ている。ルイがワタナベのいる方へ振り向くと、ワタナベは視線を逸らす。これは三島由紀夫の『仮面の告白』からの引用であろう。三島は同作の中で、三島自身に多分に重なる語り手である「私」の同性愛的な欲求が初めて起こった瞬間の様子を以下のように記述している。

 

 坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭いで鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋---糞尿汲取人---であった。彼は地下足袋を履き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とては定かではないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたのであった。それが汚穢屋の姿に最初に顕現したことは寓話的(アレゴリカル)である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを予感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。その欲求には二つの重点があったことが、あきらかに思い出される。一つの重点は彼の紺の股引であり、一つの重点は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明瞭に輪廓付けていた。それはしなやかに動き、私に向かって歩いてくるように思われた。いわん方ない傾倒が、その股引に対して私に起こった。何故だか私には分からなかった。(三島 ページ数)

 

上の引用部分について「私」は、五歳の「私」の記憶に対し精神分析学的な解釈を与えている。「或る暗いふしぎな呼び声」とはつまり無意識からの呼びかけである。また、「私」は母への贈り物としての糞尿についても触れているが、同時に肛門性愛への連想も容易であろう。これは、「彼の下半身を明瞭に輪郭づけ」る紺の股引のイメージとも連絡する。

 映画において、汚穢屋がルイ、「私」がワタナベに重ねられて『仮面の告白』が引用されている。ワタナベの主体形成は肛門期にとどまったまま停止してしまってものとして示唆されている。フロイトの解釈を加えれば、それゆえにワタナベは(カギカッコ付きの)「同性愛者」なのである。

 『仮面の告白』の「私」は『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』欲求について触れているが、これは”to be”の欲望である。ここでは”to be”の欲望が限りなく同性への性的な欲望、同性に対する”to have”の欲望に漸近していく様が描写されている。

 引用先、ワタナベについても似たことが言えるだろう。本来”to be”の欲望と”to have”の欲望は区別されるものである。しかし、ワタナベ(S)→ルイ(M)の辺においては”to be”の欲望と”to have”の欲望、つまりhomosexualな欲望が奇妙に絡み合っている。「ワタナベがルイのことを愛していた」描写があるとは言えないが、ワタナベの残虐かつ奇妙な行動にクィアな欲望が絡んでいることは明白であろう。

 

2.8 「赦し」

 クライマックスにおいてワタナベは、ルイに木材を持ち上げるよう命令し、彼がそれを落とせば射殺せよと部下に言いつける。しかしルイは屈せずに木材を持ち上げ、ワタナベは”Don’t look at me!”と泣き叫び膝を折る。木材を持ち上げるルイの姿は、周囲の俘虜たちに無言のうちに見つめられる中で、磔にされたキリストの姿に重ねられる。

 おそらく製作者は、作中繰り返し出てくるキリスト教的な教訓に準ずる人間、つまり暴力で応じるのではなく、赦し、耐えることにより困難に打ち勝つ人間としてルイのことを描きたかったのであろう。しかし、以上で指摘してきたように、ここまでワタナベは男性性が欠如していることにより問題を抱える人物として描かれているのである。それを踏まえると、最終的に映画が提示した構図は、男性性の欠如にコンプレックスを抱く、それこそクィアなワタナベに、異性愛者・ルイが、重い木材を持ち上げられるだけの健康な肉体・男性性を誇示することで勝利するというものである。さらに追い討ちをかけるように、米軍基地でマラソンをする上半身裸のルイという映像がルイの記憶として画面にオーバーラップする。この決定的な瞬間まで、ワタナベのクィア性がどのように評価されるかという可能性はまだ開かれていた。しかし結局映画が示した結末は、ワタナベのクィア性に対する断罪という矮小な枠組みにとどまるのみであった。

 さらに言えることは、異性愛規範が守られる「正しい」世界が西洋/アメリカ、クィアで「誤った」世界が東洋/日本に、結果的にではあるがマッピングされてしまったということだ。これでよくも「対立していた全ての国々に橋をかける」などと言えたものである。映画が成し遂げたことは結局「赦し」を与えると言いながら、その「赦し」がその中で機能するための異性愛規範を西洋の他者としての日本人(を代表して映されるワタナベ)に押し付けたということだ。

 

2.9 家族写真

 ルイはワタナベの部屋に入る。部屋にはワタナベの私物がいくつか残されている。その一つは竹刀だ。ワタナベはファリックなシンボルを手放した。つまり、ルイにより去勢された。

 また、棚の上には「家族写真」が置いてある。座り込んだルイはそれをじっと見つめる。「家族写真」においてもワタナベとルイは対比されている。ワタナベの「家族写真」にはワタナベとその父と思われる海軍将校しか写っていない。一方、既出であるルイの家族写真には祖父、父母、子供達が揃っており保守的に理想的な家族像を演出している。一旦はルイが戦死したものとして通知されたことにより家族は離れ離れになるものの、最後にルイが帰還して家族に抱擁される場面が映される中で再び家族像は完全なものへと戻りその円環を閉じる。映画は後日談を語る。彼は1946年にシンシア・アップルホワイトという女性と出会って結婚し、娘のシシーと息子のルークをもうける。物語は異性愛体制の範疇に舞い戻り、幕を閉じる。

 

 

  1. 結論 

 ワタナベの特性は権力の、男根の「欠如」として描き出されるが、彼のクィア性をより、ポジティブな形で捉えることができたのならまた違った結末を用意できたかもしれない。アンジェリーナ・ジョリーがインタビューで説明したようにワタナベが実際に「美しい男」としてかたちづくられたキャラクターである理由も、彼のクィアさによるところが大きいであろう。また、ルイの生い立ちも「アメリカ」から見てある意味他者性を帯びているということは指摘に価する。彼の身体にマッチョな規範を投影せずに、キリスト教的な「赦し」のテーマを描くことはできなかったのだろうか。

 『アンブロークン 不屈の男』はクィア性への魅力へとあと一歩近づけず、異性愛規範を出ることのできなかった作品である。キリスト教的な「赦し」自体は優れたテーマとなりえたであろう。しかし、無意識のうちに異性愛に優位を認める、映画の自惚れたバイアスがそのテーマを歪めてしまったと結論せざるをえない。

 

 

参考文献

 

"bird, n." OED Online, Oxford University Press

http://www.oed.com/view/Entry/19327?rskey=rchGsJ&result=1&isAdvanced=false (最終検索日:2017/7/6).

Laura Hillenbrand (2010) Unbroken: A World War II Story of Survival,

Resilience, and Redemption, Random House Trade Paperbacks

Universal Pictures (2017) Unbroken – Featurette: “Miyavi” (HD)

https://www.youtube.com/watch?v=h2eqUEOl8o8&feature=youtu.be(最終検索日:2017/7/5)

三島由紀夫 (2006) 『仮面の告白』, 新潮文庫

『八月の光』における肛門性交のテーマについて

 1. 序論

 『八月の光』では、黒人の男が白人の女とセックスをするという罪の他にもう1つ、それと重ねられる形で肛門性交の罪が繰り返し語られている。主にそれは黒人の男と白人の女の間の子供であるクリスマス自身の、もしくは彼を取り巻く欲望である。本論では一旦ハイタワーをめぐる噂における肛門性交の話題について触れたのちに、クリスマスについて掘り下げていく。

 

  1. 本論

2-1. ハイタワーをめぐる噂

 ハイタワーをめぐる肛門性愛のモチーフは、現実に起こったこととしてではなく、噂として無責任な三人称の語りの中で記述される。周囲の白人たちの持つ肛門レイプ妄想がここには観察できる。

 町を出ていくことを期待されたハイタワーがそれでもなお町を出ず、そのうちにある日彼が雇っていた黒人の料理女が辞めたことについて、「噂ではまた、その翌日、女は自分からやめたと話していたとのことで、それというのも雇い主が自分に「神と自然に反すること」をするように求めたからということだった」(上 104) とあるが、後注の通りこの「神と自然に反すること」とはもちろん肛門性交のことである。その後彼は黒人の男を料理人として雇うのだが、「これがまさしく完全に、彼にとどめをさすこととなった」(上 105)。ある晩に黒人の男は連れ出して鞭打たれ、その二日後に今度はハイタワーが、木に縛り付けられ殴られて意識を失っているところを発見されることとなる。KKKを名乗る白人たちはハイタワーが黒人の男と肛門性交をしたと妄想を膨らませてしまっているのである。彼らが「禁止」と「罰」を与えようとするとき、彼らは意図しないうちに自らの無意識の欲望のありかを暴露してしまっている。

 

2-2. クリスマス

 過去形で語られる男、クリスマスは過去の記憶にとらわれ続けている。彼はセックスについて問題を持ち続けるが、第6章で語られる彼の「記憶は信じてしまっている」(上 173) 中には、5歳の時の事件が性的なトラウマとしてすでに登録されている。

 5歳の彼は栄養士の女の部屋に忍び込み、ピンク色の練り歯磨きをこっそりと食べることを1年近く習慣としている。「部屋に入ると、彼は音を立てぬ素足でまっすぐ洗面台へと向かい、チューブを見つけた。そして滑らかでピンク色の芋虫が、羊皮紙色をした自分の指にゆっくりと絡みついていくのを見つめていた」(上 174) とあるが、この箇所を分析していこうと思う。

 まず、ピンクという色は「薄いピンクの肌をした女」(上 175) という栄養士についての説明からわかる通り、女の肌の色として説明されている。また、これは粘膜の色でもあるだろう。女の粘膜といえば膣の粘膜と理解されるかもしれないが、ここでは違う。なぜならば、チューブからひねり出される甘い練り歯磨き粉が糞便のメタファーであるからである。つまり、ピンク色は女の肛門の粘膜の色である。練り歯磨き粉が糞便のメタファーであるという証拠として、その栄養士がクリスマスにとって「食べること、食べ物、食堂、木のベンチでおこなわれる食事という儀式に、機械的に付属しているものでしかなかった」(上 175) という記述をあげることができる。食事という儀式に機械的に付属しているものとは、すなわち排便である。「若く、少し太っていて、なめらかな、薄いピンクの肌をした女は、頭には食堂を思い起こさせ、口には甘くてねっとりしたもの、やはりピンク色をした、こっそり食べるものを想起させた」(上 175) とはつまり「栄養士の女は食事を思い起こさせ、口にはその食事の結果として出てくる糞便、こっそり食べる糞便を想起させた」ということである。口に含むということで、口唇期的な欲望もまた読み取ることができる。彼は栄養士の女とその連れのセックスを目撃すると同時に、自らの多形倒錯的な性愛を栄養士の女により見咎められ、性的なトラウマを植え付けられることとなる。

 クリスマスの肛門性愛は最初女の肛門への愛として発見されていたが、8歳の彼を襲うこととなるのは男による肛門レイプである。第7章冒頭には「そして記憶はこのことを知っている。二十年経っても記憶はまだ信じている―――この日におれは男になった」(上 213) とあるが、まさしくこの日に彼はマッケカーンにより肛門をレイプされている。長老派教会の教義問答書を暗記しないクリスマスに対し、マッケカーンは罰を与えようと彼を馬小屋へと連れ出す。「マッケカーンは壁から馬具の革紐をとった。彼の靴と同じく、新しくも古くもなかった。靴と同様にきれいにしてあり、その男の匂いと似た匂いがした―――清潔で固く男性的な、生きているような革の匂い。彼は少年を見おろした。」(上 216) ここで、「清潔で固く男性的な、生きているような革の匂いのする」靴と馬具の革紐は、もちろんどちらとも男根のメタファーである。そして、「汚すといかん」(上 218) と少年クリスマスのズボンを下ろすよう命じ、尻に革紐を振りおろすというのはレイプのメタファーである。クリスマスのズボンを汚す恐れがあるものは革紐それ自体ではなく糞便であろう。この時の彼らの様子は、「どちらの顔の方が恍惚として、おだやかで、確信に満ちていたかは、誰にも言いがたかっただろう」(上 218) と説明される。この日のうちにクリスマスはもう一度レイプされ、気を失う。もっとも、第9章でマッケカーンは「彼自身は色欲の罪を犯したためしがなく、そうした話をする人間に耳を傾けたことも一度たりともなかった」(上 294) と説明されており、奇妙なねじれが生じている。実際に起こったレイプであり、かつレイプ妄想に留まるものであり、もしくはただの鞭打ちであるような、ambiguousな記憶の中の、しかしそう信じられるようなクリスマスの記憶の中の出来ごとである。

 彼は成人してなおずっと肛門に関するトラウマにとらわれ続けていたようである。彼の七日間の逃亡のうちにその様子が見て取れる。

 

そしてある日、もはや空腹を感じなくなった。突然、静かに、そんな風になった。爽やかで落ちついた気分だった。それでも、何か食べねばならぬとはわかっていた。無理をして腐った果物を、固いトウモロコシを食べた―――ゆっくりと噛んだが、何の味もしなかった。そういったものを大量に食べ、何度も血便を出す結果になった。それでも、その後すぐ、食べねばならぬという気持ちに、切迫感に、新たにとりつかれるのだった。いまや頭から離れないのは食べ物ではなく、食べねばならぬという気持ちだった。(下 124)

 

 その夜、奇妙な考えが頭に浮かんだ。彼は眠ろうとして横になっていたが、眠ってはおらず眠る必要もなさそうで、それはちょうど、食べ物を欲してもいなければ必要ともしていない胃袋に、食べ物を収めておくように命じてきたのと同じだった。それが奇妙だというのは、その原因も契機も説明も、彼には見つけられなかったためだ。(下 125-126)

 

上の2つの引用部分と類似の表現が、第6章の「彼は自分の上に折り重ねられているようで、自分が汗をかいているのを眺めながら、自分がまたしても芋虫上の練り歯磨きを、胃は欲していないにもかかわらず、口の中に押し込んでいくのを見つめていた」(上 177) という部分にも現れている。胃袋は欲してもいない食べ物を、切迫感の中で、逃亡するクリスマスは今度は実際に血便を垂れ流しながら口にすることとなる。

 彼は最終的に、グリムにより肉切包丁で去勢されるまでトラウマに縛られ続ける。

 

しばらくの間、彼は男たちのそれから彼の顔が、体が、すべてが、崩れ落ちるように、それ自体の中にのめりこむように見え、そして尻や腰のあたりの切り裂かれた服の中から、閉じこめられていた黒い血が、吐き出される息のごとく、ものすごい勢いで流れ出すように見えた、それは、上昇していく狼煙から出る火花のように、その青白い体から噴出するように見え、その黒い噴流に乗って、男は彼らの記憶の中へと永遠に上昇し続けるように思えた。(下 321)

 

尻や腰のあたり、つまり下半身から吹き出す黒い血は、精液かそれとも糞便か。おそらく両方であるだろう。ペニスがあったはずの傷口から流れ出る精液。また、上の引用部分の直前にある「口もとには何か影のようなもの浮かべながら、ただそこに横たわっていた」(下 321)という表現は興味深い。この口もとにある「何か影のようなもの」は「吐き出される息」として勢いを持って流れ出したということであるから、黒い血とはやはり、口/肛門から噴出する糞便でもあるだろう。この場面において、クリスマスに流れる黒人の血、つまり異人種間の性交と、肛門性交という2つの性の欲望に関する「罪」が合流することとなる。そして、その光景を目撃する白人の男たちもまた、彼ら自身の記憶の中に、過去の災いの中にも未来の希望の中にも「それはいつでもそこにある」こととなるのだということまで語られて、第19章は幕を閉じる。

 

  1. 結論

 『八月の光』では、肛門性交という「罪」が異人種間の性交という「罪」と重ねられる形で描かれている。さらに、白人の男たちもまたその「罪」を共有しているのだということも示唆されている。

 

  1. 参考文献

フォークナー (2016) 『八月の光』(上)(下) , 諏訪部浩一翻訳 , 岩波書店

Never Let Me Goについて

十中八九そのうち加筆修正します。

 

1. 序論

 Never Let Me Goは「人間」対「非人間」の構図を「非人間」であるクローンの側から語る物語である。語り手キャシーにより、明確に読み手を想定して語られている設定だが、これはいかなる意義を持つだろうか。

  

2.本論

 

2.1 「人間」対「非人間」

 物語世界において、人間から見たクローンはどのような存在であるか。人間たちにとって、クローンたちは「非人間」、受け入れ難い他者でしかない。

 マダムは生徒たちを怖がっているのだというルースの説を確かめるためにルースとキャシーたちは、マダムの直前で左右二手に分かれすぐ側を通り過ぎるという対マダム作戦を実行する。マダムが恐怖に凍りついたことは予想通りだったが、蜘蛛嫌いな人が蜘蛛を恐れるようにマダムが恐怖していたこと、自分たちが蜘蛛と同じに見られていたことをキャシーたちは突きつけられて打ちのめされる。彼らは施設の外の「人間」たちから得体の知れない何か別のものであるとして認識されていると知る。

 このことはマダムの家へのトミーとキャシーの訪問の場面でも語られる。試験管の中の得体の知れない存在であるクローンたちのことを人間たちは恐れており、クローンのことも、そのクローンたちが育つ環境のこともなるべく考えたくないと思っている。それはマダムやエミリ先生も同じであり、生徒たちに対する恐怖心を抑えるのに必死だったとエミリ先生は述べている。

 人間から見たクローンは「非人間」であり、蜘蛛と同じ「動物」であり、試験管の中の得体の知れない「非生物」である。エミリ先生は、自分とマダムは生徒たちの作品を持って行って展示会を開くことで、クローンたちにも魂と心があるということを証明しようとした。こういう絵を描ける子供達を、どうして人間以下と言えようか、いや言えないだろう、彼らは人間並みであると支援者たちに訴えかけた。しかし彼らはだからと言ってクローンたちを利用する臓器提供に反対するわけではない。例えクローンたちが人間並みであったとしてもそれは「非人間」でしかなく、待遇を改善しようという話にしかならない。

 クローンはオリジナルである「親」のcopyである。ルースが言うには、クローンの「親」たちは薬物中毒者アルコール中毒者、売春婦、浮浪者、犯罪者といった人間の中でもdegenerateしたような者たちのcopyである。degenerateした人間たちの更にdegenerateしたcopyであるとして、クローンたちにあるemotionは顧みられない。

 

2.2 抵抗するクローン

 なぜクローンたちは逃げ出さず、「提供」を運命として受け入れてしまうのか。「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」(デュルケーム p.23)とデュルケームは述べているが、まさに彼らの行為は自殺である。なぜクローンたちは抵抗しないのか。

 なぜクローンは抵抗できないのかという問いの方が相応しいかもしれない。ヘールシャムの運営理念は保護することであり、生徒たちに幸せな子供時代を用意するために先生たちは生徒たちに対して物事を隠すこと、嘘をつくことをしていたとエミリ先生は言う。ルーシー先生の言葉を借りれば、クローンたちは自分たちの将来について教えられているようで教えられていなく、考える術を奪われている。ヘールシャムを出た後も、卒業生たちがずっとヘールシャムの生徒であるという意識を持っているという描写が何度も出てくるが、マダムやエミリ先生と再会したトミーとキャシーの様子も、1人の大人というよりは生徒のままであり、彼らが言葉をかわす様は会話というよりは授業でそのことをキャシーも自覚している。

 しかし、クローンの1人であるキャシー、トミーとともに真実をやっと知った彼女は抵抗を始める。彼女がこの物語を語り出した時にはすでに一回目の「提供」の通知が届いていており、クローンとして臓器提供をして死ぬという自分の運命を彼女は受け入れているようである。それでもなお、語るということは意義のある行為である。キャシーたちはヘールシャムにいた頃、マダムに作品が選ばれるという名誉を求めて作品を作っていた。同じようにキャシーは、今度は自分の人生を小説という作品にしようとしている。作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出すということをマダムは教えていたが、キャシーは自分の人生に起こったこと、他のヘールシャムの生徒たちと接する中で生まれた感情の動きを小説にすることで彼女の内部をさらけ出しており、この小説を手に取るであろう「人間」たちに、自分たちクローンにもまた魂があるのだと伝えようとしているのだ。

 

  1. 結論

 Never let me goに出てくるクローンたちは抵抗せず、自分の運命を受け入れているようである。しかし、その中でもキャシーは静かに、もしかしたら意識しないままに抵抗を始めている。その抵抗とはまさに、彼女の人生を語る事、小説を書くという事である。

 

 注

デュルケーム (2010) ,『自殺論』(訳者:宮島孝 , 中公文庫)

“Billy Budd”と”Beau Travail”について

1.序章

 

 第1章では簡単に映画と原作の比較をする。第2章では映画の舞台を確認する。第3章では色と鏡という二つのモチーフを鍵に、主題論的に映画を読み解く。第4章では原作における両価的なオルガズムについて掘り下げる。第5章では原作と同時代的な諸作品を比較しつつ、映画における”beau travail”とは何であったかを探る。以上5つの章とまとめの第6章を通じて、作品のクィア性を追う。

 

1-1.映画と原作の簡単な比較

  Beau TravailはMelvilleのBilly Buddを下敷きとしている。Billy BuddにおけるBilly、Claggart、Vereの3人の登場人物はおおよそBeau TravailにおけるSentain、Galoup、Forestierの3人に対応している。Billy Buddの主人公はBillyであるが、Beau Travailは主にGaloupの視点から物語が進行する。

 以下、簡単にキーワードを挙げながら、それぞれの登場人物のプロフィールの比較をする。

 

Billy Budd (Billy Budd)

21歳。The Rights of Manから徴用される。身寄りの無い孤児。吃音症。美男子。

 

Sentain (Beau Travail)

22歳。外人部隊訓練兵(legionnaire)。身寄りの無い孤児。フランス語は堪能でなく、これはBillyの吃音症とも比較できる。

 

John Claggart (Billy Budd)

船上の警衛に当たる下士官(Master-at-armsでかつPetty Officer)。黒い髪を持つ外国人。

 

Galoup (Beau Travail)

上級曹長(Adjudant-chef)。下士官の中では最高位。国籍については明言されない。建前としてフランス外人部隊には将校以外にフランス国籍を有するものはいないことになっているが、制度上の抜け道はあり、実際に多くのフランス人も志願している。フランスから長く離れすぎたというセリフもあることから、フランスに何らかのルーツを持っているのかもしれない。

 

Vere (Billy Budd)

軍艦Bellipotentの司令官。大佐。子爵であり名門の出。四十そこそこの独身男。

 

Forestier (Beau Travail)

Commandant(少佐)。佐官であることから彼はフランス国籍を有する者として入隊した可能性が高い。「2-2.フランス外人部隊について」を参照せよ。

 

 

2.映画の舞台

 

2-1.ジブチの歴史

 19世紀後半以降のジブチ:1859年から、フランスの民間投資者が過半の出資を行うスエズ運河会社によるスエズ運河の建設が始まった。1875年にはイギリスがスエズ運河筆頭株主となる。1896年、第一次エチオピア戦争中にフランスはフランス領ソマリとしてこの地を植民地化した。1900年にソマリランド戦争が勃発、1920年終結。「アフリカの年」こと1960年以降もソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立は複雑を極めたため独立問題は進まず、フランス領ソマリはフランスの海外県に留まっていた。1967年の住民投票によって引き続きフランス領であることを選択した後、フランス領アファル・イッサ(1967-1977)と改称された。1977年にイッサ人はジブチ共和国として独立。しかし民族対立はおさまらず、1991年にジブチ内戦が勃発した。2001年に内戦は終結した。

 

2-2.フランス外人部隊について

 フランス外人部隊とは、フランス陸軍所属の外国人の志願兵で構成される正規部隊のことである。1831年に創設されて以来現代まで一貫して存在している。

 志願者には17.5歳から39.5歳であること、正当なIDと出生証明書を所持していること、インターポールから指名手配されていないこと、身体的に適格であること、BMIが20から30であることが求められる。一方で、国籍・人種・宗教・フランス語の能力・学歴・資格・社会的地位・職業的地位・婚姻状況・従軍歴は一切不問とのことである。ちなみにGaloupの左胸にも入っているタトゥーだが、ナチスや人種差別主義的なものでないこと、stupidでないもの、顔を覆う大きなものでないものであることを条件に許可されている。

 初期の契約期間(5年)を満了し、滞りなく納税し、現状ではさらに最低2年から3年の延長契約することを条件に、フランス国籍取得の申請手続きが通ればフランス国籍を取得できる。

 フランス外人部隊の構成員は、将校は基本的に全員フランス国籍を有する者で、フランス軍の陸軍士官学校や正規軍下士官からの将校任官を経て外人部隊に配属されたものである。一方下士官以下は基本的に外人志願者である。よって将校は下士官以下とは全く別物であるが、能力と実績があれば、兵卒からたたき上げて将校となることも可能である。

 

2-3.ジブチ駐留フランス軍について

 1977年にジブチ共和国との間で交わされた防衛協定に基づき、ジブチにはフランス軍が駐留している。ジブチ駐留フランス軍は、アフリカ大陸に展開しているフランス軍舞台の中では最大規模を維持している。かつては第13外人准旅団も駐屯していたが、2011年7月3     1日にアラブ首長国連邦に移駐した。

 Galoup達が所属しているのはこの第13外人准旅団だと考えられる。13というユダの数字を背負う外人部隊である。とすると、赤いテーブルクロスの敷かれた午餐は最後の晩餐の変奏であろう。彼らの中にクローゼットの中の「裏切り者」---ホモソーシャルの中に密かに同性への過剰な欲望を持ち込む者---が潜んでいるのだ。また、ジブチで現地民により売買されるラグが伝統的に「13本の縞」の絵柄を持つというのも、13という数字がフランスから見た「オリエンタル」としての象徴であると考えられる。

 ちなみに1976年5月24日、軍事訓練の最中にフランス軍のヘリコプター(SA 330B PUMA)が南ジブチのHolholの近く、Djadjaboka谷線(thalweg)に墜落し、8人が死亡している。そのうち6人はlégionnaire(訓練生)であった。おそらく映画内で描かれるヘリコプター事故はこれを下敷きにしているのだろう。

 

2-4.時代設定: BillyからSentainへの年齢変更

 Billyは21歳である。Billy Buddの舞台は1797年であるから、彼が生まれた年は1776年、つまり「自由の国」アメリカが生まれた年でもある。彼は商船”Rights-of-Man”から英国軍艦に強制徴用される。彼はまさに人権の象徴である。

 ところで、Sentainは22歳である。Billyの年齢設定が明らかに意図的なものであるから、この変更もまた意図的になされたものであると考えられる。

 Sentainが生まれた年には何が起こったのだろうか。そのためにはまず映画の舞台を定める必要がある。2-3で述べたヘリコプター事故の起った1976年が舞台であろうか。しかし、その21年前、1955年に起った特別な事件は見当たらない。では、映画が公開された1999年はどうだろうか。これならうまく説明がつきそうである。先ほども述べたが1977年には、フランスとジブチ共和国との間で防衛協定が交わされており、それに基づきジブチにフランス軍が駐留している。第二次世界大戦が終わり、「アフリカの年」を経て、「新たな植民地支配」の形が誕生した年にSentainは生まれたとでも言えようか。もしそうなら、自由とともに生まれたBillyとは対照的であり、実に皮肉的である。

 

 

3.Beau Travailについて-主題論的視点より

 映画の視覚的なモチーフについて、色と鏡を扱う。単色、ないし色の組み合わせはそれぞれあるイメージを象徴している。また、鏡というモチーフからは視線の問題について掘り下げてみる。

 

3-1.モチーフ:色

 バーで男女の身体の上を走る色の奔流はその後それぞれに抽出され、作用し合う。主題としての青は見つけやすい。そこに滲み出す赤。2つの主題は棺にかけられたトリコロールで合流する。青と赤の間に流れる白。フランス外人部隊隊旗が結ぶ緑と赤。

 

3-1-2.青

 訓練する男達の背景を印象的に埋め尽くす空。海を背に視線を奪い合うSentainとGaloup。青はマスキュリンの体現であるようでいて、海は階調のうちに緑へと溶かし込まれる。また、原作のBillyは空色の眼であった。

 

3-1-3.赤

 血と受動性。すなわち受傷した男のイメージである。また、アダムことBillyが楽園で食べた知恵の実の色でもある。

 以下、映画で赤が出てくる場面の一部を列挙する。

 

  • 冒頭、壁画に描かれた空の色。空の中には、反転されたフランス外人部隊の隊旗(赤と緑)のような図案。
  • 黒の中に浮かび上がる出演者の名と題字の色。
  • Forestierが車の中で血について言及すると、その顔は赤く照らされる。赤が血の表象として現れる予兆である。
  • 赤いドレスを着た少女がベッドに寝そべる。彼女はGaloupの現地の恋人である。これは見られる客体としての赤である。同時に、ヨーロッパの「他者」としての赤でもある。
  • 海の中で握られるナイフにより、海(しかしこれは青か緑か区別のつけにくい)の中に赤が滲み出すことが予見される。その予見はヘリコプターの墜落により裏付けられる。
  • 青いテーブルの上にかけられた赤いテーブルクロス。
  • 罰則として穴掘りを命じられた兵士の手に滲む血。
  • 兵士たちが囲む燃え盛る焚き火に対し、Galoupが咥えるタバコの明滅する光。彼のアイデンティティは明滅とともに揺らぎを見せる。
  • ラスト、緑のベッドに横たわった主人公が銃を握る時、当然予見されなければならない色。ナイフが画面に赤をもたらしたように、銃は血と受動性をGaloupに導き入れる。

 

3-1-4.白

 「穴掘り」(または「アナル掘り」)をした後地面に現れる二本の白い筋。塩湖で力尽き横たわるSentainにこびりついた白い塩。精液の暗喩。また、酒場に向か兵士たちが着用していた軍服も白色であった。

 

3-1-5.緑

 外国人としてのアイデンティティの色。アイデンティティの曖昧さを表象する色。クィアの色。

 以下、映画で赤が出てくる場面の一部を列挙する。

 

  • 赤との組み合わせで、フランス軍外人部隊隊旗の色である。また、部隊の制服も緑。そしてグリーンベレーフランス外人部隊の象徴の一つである。
  • 美しい若き頃のForestierの写真は緑色の手帳の上に置かれている。
  • ビリヤードテーブルの緑色の羅紗の上、キューでボールを転がし合うForestierとGaloup。実際二人がセックスしたかどうかは別にして、セックスの言い換え。また、ボールの転がる先を不安げに見つめるGaloupはアイデンティティが揺らいでいるとも言えるかもしれない。
  • Sentainは緑色の文字が刻まれたコンパスを手に歩く。しかしそのコンパスはGaloupにより不正に書き換えられている。

 

3-1-6.青・白・赤

 トリコロールによって三位一体を成す。青い空を背景に行われる訓練は、

身体への虐待、受傷した男のイメージを連想させながら赤へと推移していく。青と赤は精液により間を取り持たれる。また、三位一体といえば、SentainとGaloup、Forestierの三人が構成する聖家族も連想させる。

 

3-2.モチーフ:鏡

鏡は、ジキルの男らしさを欠く恥ずべきナルシシズムを証明するだけではなく、同性愛を扱った文学において鏡を脅迫的なシンボルにする仮面と他者の関係を示してもいる(『性のアナーキー』、E・ショウォルター)

 

 Forestierは鏡を覗き込む。また、別の場面ではGaloupも髭を剃ろうと鏡を覗き込む。しかしこの時GaloupはForestierに見られていることに気がついていない。彼は鏡の中の自分の姿を見つめ、さらにForestierからの一方的な視線に晒されている。

 また、この鏡にはダンスホールにも貼られている。菱形タイル状に敷き詰められた鏡を通してGaloupは虚像としての女性を見る。そしてラスト、Galoupはこの鏡の横で踊る。

 

 

4.Billy Buddについて-身体の制御の失落、またはアウフーベン的なオルガズム

まずはBilly Buddについて以下の引用部分について掘り下げてみよう。

 

At the penultimate moment, his words, his only ones, words wholly unobstructed in the utterance were these—”God bless Captain Vere!” Syllables so unanticipated coming from one with the ignominious hemp about his neck— a conventional felon’s benediction directed aft towards the quarters of honor; syllables too delivered in the clear melody of a singing-bird on the point of launching from the twig, had a phenomenal effect, not unenhanced by the rare personal beauty of the young sailor spiritualized now thro’ late experiences so poignantly profound.

Without volition as it were, as if indeed the ship’s popu- lace were but the vehicles of some vocal current electric, with one voice from alow and aloft came a resonant sym- pathetic echo—”God bless Captain Vere!” And yet at that instant Billy alone must have been in their hearts, even as he was in their eyes.

At the pronounced words and the spontaneous echo that voluminously rebounded them, Captain Vere, either thro’ stoic self-control or a sort of momentary paralysis induced by emotional shock, stood erectly rigid as a musket in the ship-armorer’s rack.

 

 

吃音症状のあるビリーが「いまはなんらの舌もつれもなく」言葉を発する。彼は死刑という究極の身体の制御の放棄と同時に、舌を制御下に置く。ヴィア艦長に向けたその言葉は、ヴィア艦長を「まるで武器庫に立てかけたマスケット銃そっくり」に硬直したかのように、不動の姿勢で立ちつくさせる。つまり、ヴィア艦長を勃起させる。また、「瞬間麻痺症」と、彼が身体の制御を失ったことも記述される。さらにビリーは一同の心を占有する。その姿により一同の視覚を占有する。そしてその舌から言葉を人ならざるこだまとして共鳴させる。吊り上げられ天へと向かうビリーの男根的な姿は、一同を犯し、麻痺させる。

 この類型はポーの『ヴァルデマール氏の死の真相』にも表れている。死を前にしたヴァルデマール氏は催眠術を通し主人公に身を預けることを進んで望む。つまり、身体の制御が失われることを進んで欲望する。また、彼は催眠術にかけられると痙攣し、また、吃音の症状を見せる。彼はこの点において身体の制御を進んで捨てており、受動性を帯びている。しかし、彼は同時にファリックなシンボルとしての特徴も多々持つ。例えば、彼のめくれた上唇からは腫れて黒ずんだ舌が丸見えになる。『レディ・サノックスの事件』(コナン・ドイル)でストーンがヴェールをつけた女性の下唇からV字型の肉片を切り取ったのは、女性器からクリトリスを切除することの比喩であった(『性のアナーキー』、E・ショウォルター)が、ここではヴァルデマール氏の顔面に配置された女性器から、腫れて黒ずみ痙攣する男性器が生えてくるのだ。ここで、先ほども述べた、ビリーの舌が同じく男根的な象徴であろうことを思い出しても良いだろう。そして催眠術が解けた瞬間、彼はベトベトした液体となって主人公たちの手を汚す。彼は射精し、主人公たちを犯す。

 Billy Buddに話を戻そう。ヴァルデマール氏の死とは異なり、Billyの処刑においては痙攣が欠如している。その理由について、the Surgeon による「仮説」が一応示される。

 

Even should we assume the hypothesis that at the first touch of the halyards the action of Budd’s heart, intensified by extraordinary emotion at its climax, abruptly stopt—much like a watch when in carelessly winding it up you strain at the finish, thus snapping the chain

 

「ゼンマイが巻かれすぎたために」揚索に接触した瞬間に「鎖がプツンと切れ」、オルガズムを迎えたビリー。「そこでビリーの「手足を縛られた姿」(1427)は薔薇色の肉体であると同時に「ヤードの先端から垂れ下がった真珠」(1434)つまり真珠のような射精液でもある」(セジウィック)。しかし一方でセジウィックは、ビリーの死の瞬間における「筋肉系統の機械的痙攣」の欠如という「異変」は「すなわち勃起またはオーガズムの説明不可能な不在」であると述べる。

 ビリーの身体は絞首による当然予想される結果、糞尿の垂れ流し/漏精を起こさない。彼の「オルガズム」は、「男性的」なオルガズム(ウェットオルガズム)と「女性的」なオルガズム(ドライオルガズム)という2つの両価性を持つ。

 Billyもヴァルデマール氏も、アナル的(「受動的」)かつ男根的(「能動的」)なオルガズムをアウフーベン的に同時に成し遂げ、彼らは両性具有という「完全な」姿となった。

 

 

5.「美しき仕事」とは何であったのか

 Billy Buddの同時代的な諸作品を比べつつ、”beau travail”が示すものについて考察する。

 

5-1.習慣への固執:アタスン/マイクロフト/ヴィア艦長/Galoup

 「空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れ」(ショウォルター)、慎重に身を律する男たちについて。

 

5-1-2. アタスン:The Strange Case of Dr. Jykyll and Mr. Hyde

 アタスンは年代物の美酒への好みを矯正しようとジンを飲み、お堅い神学の本を読んで夜を過ごす。本当は芝居を見るのが好きなのに、二十年も劇場のドアをくぐったことがない。ショウォルターに言わせると、彼は空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れている。

 しかしジキルと同様、アタスンにも秘密にしておかねばならない一面があった。

 

‘I incline to, Cain’s heresy,’ he used to say. ‘I let my brother go to the devil in his quaintly: ‘own way.’

 

そしてアタスンにもリチャード・エンフィールドという、遊び人で年下の、特別な男性の友人がいる。二人は毎週日曜のたびに散歩をするが、”It was a nut to crack for many, what these two could see in each other, or what subject they could find in common. “なのである。そして物語終盤、アターソンは執事のプールとともに斧を振るい、鍵のかかったドアを破った先にキャビネットの中に置かれていたジキルの姿見を発見する。

 

「アターソンがジキルの赤いベーズ布地で張られたドアの後ろに見たのは、鏡に映った自分自身の顔であり、無知と斧とをもってしても打ち砕くことのできない、抑圧され、苦しみにみちた欲望の姿であった。」(ショウォルター)

 

5-1-3. マイクロフト:シャーロック・ホームズシリーズ

 シャーロック・ホームズの兄、マイクロフトも習慣の人である。

 

Mycroft lodges in Pall Mall, and he walks round the corner into Whitehall every morning and back every evening. From year ’s end to year ’s end he takes no other exercise, and is seen nowhere else, except only in the Diogenes Club, which is just opposite his rooms.

You don’t expect such energy from me, do you, Sherlock? But somehow this case attracts me.

 

 

そして彼は「発話禁止」の”queer”なクラブ、ディオゲネスクラブの一員である。

 

The Diogenes Club is the queerest club in Lon- don, and Mycroft one of the queerest men.

 

5-1-3.ヴィア艦長:Billy Budd

 彼は”grave in his bearing, evinced little appreciation of mere humor”な男である。しかし、”Starry Vere”の実は感受性豊かな一面も同時に紹介される。

 

As with some others engaged in various departments of the world’s more heroic activities, Captain Vere, though practical enough upon occasion, would at times betray a certain dreaminess of mood. Standing alone on the weather- side of the quarterdeck, one hand holding by the rigging, he would absently gaze off at the blank sea. At the presentation to him then of some minor matter interrupting the current of his thoughts he would show more or less irascibility; but instantly he would control it.

 

また、彼は処刑されたビリーを前にして、”thro’ stoic self-control”のためか、はたまた”a sort of momentary paralysis induced by emotional shock”のためか、武器庫に立てかけたマスケット銃(ファリックなシンボル)よろしく彼は不動の姿勢で硬直したように立ち尽くす。ユーモアにほとんど興味を示さず禁欲主義的なヴィアも実はqueerな存在であったという暴露である。

 

5-1-4. Galoup:Beau Travail

 道を踏み外さぬよう心がけるという性質は、ヴィア艦長に対応する登場人物であるForestierよりは、むしろよくGaloupに現れているように思われる。彼のその性質はマイクロフトのように習慣への固執、もっともそれはGaloup自身の固執というよりはカメラアイによる固執であるが、洗濯、物干し、アイロン掛けという形をとって現れる。このある種「女性的」な作業を兵士たち、特にGaloupが行う様をカメラは執拗に映し出す。ベッドメイクングもその類似だ。Galoupは銃を握るその直前まで道を踏み外さぬよう葛藤し続ける。さらに、この「習慣」には軍隊における訓練も含まれるであろう。一定のコースを各隊員が辿る訓練、隊員の各々の身体が画一の運動をするよう定められた体操も、彼らの身体が「無秩序な想像力の領域」へと放逸するのを律しようという試みのもとなされているのだ。

 しかしこれらの規則的な身体の運動は、映画ラストのGaloupの無軌道で不格好なダンスにより打ち破られる。彼はついに「道を踏み外した」のである。同一化したい「フランス」から地理的に離れることによりアイデンティティを保持していた彼は、フランスに戻された今、自己同一性を崩壊させる。

 以上、洗濯、物干し、アイロン掛け、ベッドメイキング、そして訓練がタイトルの表す”beau travail”であると筆者は考える。

 

 

6.まとめ

 

 以上、男の欲望が男へと向けられる様々な形態---眼差し、色、地理、習慣etcを追ってきた。美しい男が男のみを構成員とする組織に放り込まれて、動揺ないし組織の強化が起こる。そのどちらを描いている、と断言することは難しい。このギリギリの均衡を読み解くのはスリリングで興味深い。

 今回時間が足りなかったが、今後の課題としては、人ならざる音---しかしそれはしばしば人間によって発せられる声である---という観点から、作品を読み解いてみたいと思う。

 

 

7.参考文献

 

『アデル、ブルーは熱い色』を取り巻く性の政治

 『アデル、ブルーは熱い色(原題:La vie d'Adèle Chapitres 1 et 2)』はアブデラティフ・ケシシュ監督による作品である。フランスでは2013年5月23日、日本では2013年10月25日に公開された。本作は第66回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得し、また『バラエティ』のジャスティン・チャンの、近年記憶される中でも最も爆発的な写実的性行為シーンが含まれるとの評のように、特に女性間の性行為シーンが話題を呼んだ。

 まず、性行為シーンの各国の公開の扱いについて簡単に述べる。アメリカ合衆国ではカットなし、ボカシなしで公開されたものの、アメリカ映画協会が過激な性描写を理由に本作をNC-17に指定したことにより、商業的な打撃を受けている。日本でもノーカットで劇場公開されたが、映画倫理委員会からR18+に指定され、興行した映画館が大幅に限られた。また、DVDレンタルでは性行為シーンが2つカットされている。

 筆者が『アデル、ブルーは熱い色』を観たのは2年前、レンタルDVDによってであった。その後、セックスシーンがカットされていたと知り、該当部分を確認したくて、インターネット上にアップロードされていないか探していた。動画はすぐに見つかった。XVideosにセックスシーンのみをつなげた複数の動画がアップロードされていたのである。XVideosはアメリカの世界最大級のアダルト動画共有サービスである。2017年1月21日現在でもたくさんアップロードされたままである。そのうちの一つのタイトルはblue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENEだ。映画の一部分が切り取られ、ポルノ動画としてアダルト動画共有サービスに投稿されているというのはなかなか衝撃的であった記憶がある。スティーブン・スピルバーグはカンヌで「これは同性愛の物語ではなく、素晴らしい愛の物語だ」などと述べているが、セックスシーンは切り取られ、まさにレズビアンがファックしている動画として扱われているのだ。

 主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥは、アブデラティフ・ケシシュ監督の撮影方法についてメディアに度々苦言を述べている。以下はレア・セドゥのインタビューからの引用である。

 

Abdel would kill me, he hates fabrication. He wants us to really be smoking a joint and drinking beer. Sometimes too much. He wants to be close to the truth every time. We are drinking real wine. The man who plays the Emma's stepfather is one of the producers and he was so drunk in one scene. You just listened to his voice and you knew it wasn't useable – he was so drunk and saying things that weren't the subject of the film.(METRO)

 

 アブデラティフ・ケシシュ監督の完璧主義は様々なシーンの撮影にわたるが、映画に出てくる10分間のセックスシーンは撮影に丸々10日間かかったらしい。度々屈辱的に感じることがあったとレアは特に性行為シーンの撮影について批判している。

 

Was there anything that she refused to do? “Yes, cunnilingus!” Seydoux laughs. “We had fake pussies on. You have something to protect and tape it under. I don't make love on screen. We can fake these things, you can't fake feelings, but you can fake body language.” Did they ever worry they were merely playing out a male fantasy? “Yes. Of course it was kind of humiliating sometimes, I was feeling like a prostitute. Of course, he uses that sometimes. He was using three cameras, and when you have to fake your orgasm for six hours... I can't say that it was nothing. But for me it is more difficult to show my feelings than my body.”(METRO)

 

インタビュアーは、彼女らがただ単に”male fantasy”を演じることにはならないかと心配はしなかったかと尋ね、レア・セドゥはそれに”Yes”と答える。実際撮影は屈辱的なものであったし、自分の体でなく自分の感情をみせることに苦労したと。

 また、ここで興味深いのは、レア・セドゥが繰り返し、演技はボディー・ランゲージの面においてfakeであったと主張することである。偽物の性器にクンニリングスをし、オルガズムを偽装したと。これに対し、アブデラティフ・ケシシュ監督は演技がrealであることを繰り返し演者に求める。上にも引用したが、彼はfabricationを嫌い、演者にrealのアルコールを飲ませ、そして長時間の撮影を通して演者がrealな性的興奮を表現することを求める。また、『アデル、ブルーは熱い色』の原作はLe bleu est une couleur chaudeであるが、これの主人公の名前はアデルではなくクレモンティーヌである。監督が主演女優アデル・エグザルホプロスの名前を使うことを要求したことが原因で、映画の主人公の名前はアデルに変更された。ちなみに監督はエマの名前もレアに変更することを要求したが、これはレアが拒否したことにより通らなかった。アブデラティフ・ケシシュ監督の、fakeではなくrealだということを装わせるやり方は、ポルノ的であるとも言える。

 レア・セドゥやアデル・エグザルホプロスが撮影中に屈辱感を得たという点において、マッキノンの言う”The women in it may dissociate to survive, but it is happening to their bodies. “(pp.26)なる主張は確かにある一定の正当性を持つ。しかし、マッキノンはその後、演者の身に起こっていることと演者以外の女性一般の身に起きていることとを混同させながら論を進めていく。また、ドウォーキンの主張、ポルノにおいて起こっていることがすなわちそのまま女性一般の身に起こっていることであるというのは本当であろうか。マッキノンやドウォーキンのロジックを使って例えばこの映画を規制することは正当であるだろうか。

 マッキノンは、ポルノが現実と等しく経験に代わることによって男性に性的興奮を与えているとも述べる。男性はポルノを見て勃起し、レイプをするのだと主張する。しかし、マッキノンのような、男性は男性役のみに、女性は女性役のみに感情移入をするという主張が正しいとするならば、『アデル、ブルーは熱い色』における女性間の性行為シーンには、男性は感情移入ができず、したがって性的興奮も得ないことになってしまう。また、勃起して性行為シーンを再現しようと試みるにしても、そもそも再現しようがない。マッキノンのロジックを用いたままこの映画を規制しようとすることは矛盾している。

 バトラーはこのような、ファンタジーと表象と行為の間に連続な因果関係を見出すやり方に反論している。

 

There is, then, strictly speaking, no subject who has a fantasy, but only fantasy as the scene of the subject’s fragmentation and dissimulation ; fantasy enacts a splitting or fragmentation or, perhaps better put, a multiplication or proliferation of identifications that puts the very locatability of identity into question. (pp.110)

 

Here again there is no interpretive leeway between the representation, its meanings, and its effects ; they are given together , in one stroke - as it were - as an instantaneous teleology for which there is no alternative. And yet, if this were true, there could be no analysis of pornography. Even from within the epistemological discourse that Dworkin uses, one which links masculinity with agency and aggression, and femininity with passivity and injury, her argument defeats itself. (pp.113)

 

女性がそのような表象を観ること自体が中傷を呼び起こし、視聴者はその視覚的暴力の受動的受容者となってしまうのならば、女性が批判的分析をする余地はあらかじめ排除されてしまう。また、バトラーは”Prohibitions work both to generate and to restrict the thematics of fantasy.”とも述べる。性的な場面を禁止することは、同時に生産である。この生産は、排除の原則のもとに、想像可能性を規制してしまう。

 具体的に、『アデル、ブルーは熱い色』に話を戻すと、『アデル、ブルーは熱い色』の性行為シーンを規制してしまうことは、その性行為シーンの想像可能性を規制してしまう。禁止することで、本作の女性間の性行為シーンは、男性がマスターベーションに用いる”LESBIAN FUCKIN SCENE”との解釈に限定されてしまうのだ。

 以上『アデル、ブルーは熱い色』を通して見てきた通り、性的表現を禁止してしまうことそのものが一つのファンタジーであり、性行為シーンの読解の仕方を限定してしまう。ある映画をNC-17にしてしまうことで、例えばレア・セドゥが自身の体以上に感情を表現しようとした試みは弱められ、その性行為シーンは「不適切で卑わいな」性行為として強制的に矮小化されてしまう。「ポルノ規制」をすることには問題があるであろう。

 しかし、演者自身が実際に性行為を演じ、そのことによって苦痛を感じたと主張していることも事実である。作品に対する多様な読みが可能となったとしても、その事実は残されたままだ。規制とは別の形をとって、作品の制作という場面において俳優、特に女性の俳優の立場、待遇について議論していくことは必要であろう。

 

 

参考文献

 

  • MacKinnon, Catharine A. Only Words. Harvard University Press, 1993. Chapter 1.
  • Dworkin, Andrea. “Against the Male Flood: Censorship, Pornography, and Equality”. Drusilla Cornell ed. Feminism and Pornography. Oxford University Press, 2000. pp. 19-38.
  • Butler, Judith. “The Force of Fantasy: Feminism, Mapplethorpe, and Discursive Excess.” differences 2.2 (1990): pp. 105-125.
  • blue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENEhttp://www.xvideos.com/video6542162/blue_is_the_warmest_color_lesbian_fuckin_scene)2017年1月22日閲覧