black diary

学部生ですご容赦ください。いろいろご指摘いただけると嬉しいです。

『八月の光』における肛門性交のテーマについて

扱いきれてないです。難しい。また読みたい。

 

  1. 序論

 『八月の光』では、黒人の男が白人の女とセックスをするという罪の他にもう1つ、それと重ねられる形で肛門性交の罪が繰り返し語られている。主にそれは黒人の男と白人の女の間の子供であるクリスマス自身の、もしくは彼を取り巻く欲望である。本論では一旦ハイタワーをめぐる噂における肛門性交の話題について触れたのちに、クリスマスについて掘り下げていく。

 

  1. 本論

2-1. ハイタワーをめぐる噂

 ハイタワーをめぐる肛門性愛のモチーフは、現実に起こったこととしてではなく、噂として無責任な三人称の語りの中で記述される。周囲の白人たちの持つ肛門レイプ妄想がここには観察できる。

 町を出ていくことを期待されたハイタワーがそれでもなお町を出ず、そのうちにある日彼が雇っていた黒人の料理女が辞めたことについて、「噂ではまた、その翌日、女は自分からやめたと話していたとのことで、それというのも雇い主が自分に「神と自然に反すること」をするように求めたからということだった」(上 104) とあるが、後注の通りこの「神と自然に反すること」とはもちろん肛門性交のことである。その後彼は黒人の男を料理人として雇うのだが、「これがまさしく完全に、彼にとどめをさすこととなった」(上 105)。ある晩に黒人の男は連れ出して鞭打たれ、その二日後に今度はハイタワーが、木に縛り付けられ殴られて意識を失っているところを発見されることとなる。KKKを名乗る白人たちはハイタワーが黒人の男と肛門性交をしたと妄想を膨らませてしまっているのである。彼らが「禁止」と「罰」を与えようとするとき、彼らは意図しないうちに自らの無意識の欲望のありかを暴露してしまっている。

 

2-2. クリスマス

 過去形で語られる男、クリスマスは過去の記憶にとらわれ続けている。彼はセックスについて問題を持ち続けるが、第6章で語られる彼の「記憶は信じてしまっている」(上 173) 中には、5歳の時の事件が性的なトラウマとしてすでに登録されている。

 5歳の彼は栄養士の女の部屋に忍び込み、ピンク色の練り歯磨きをこっそりと食べることを1年近く習慣としている。「部屋に入ると、彼は音を立てぬ素足でまっすぐ洗面台へと向かい、チューブを見つけた。そして滑らかでピンク色の芋虫が、羊皮紙色をした自分の指にゆっくりと絡みついていくのを見つめていた」(上 174) とあるが、この箇所を分析していこうと思う。

 まず、ピンクという色は「薄いピンクの肌をした女」(上 175) という栄養士についての説明からわかる通り、女の肌の色として説明されている。また、これは粘膜の色でもあるだろう。女の粘膜といえば膣の粘膜と理解されるかもしれないが、ここでは違う。なぜならば、チューブからひねり出される甘い練り歯磨き粉が糞便のメタファーであるからである。つまり、ピンク色は女の肛門の粘膜の色である。練り歯磨き粉が糞便のメタファーであるという証拠として、その栄養士がクリスマスにとって「食べること、食べ物、食堂、木のベンチでおこなわれる食事という儀式に、機械的に付属しているものでしかなかった」(上 175) という記述をあげることができる。食事という儀式に機械的に付属しているものとは、すなわち排便である。「若く、少し太っていて、なめらかな、薄いピンクの肌をした女は、頭には食堂を思い起こさせ、口には甘くてねっとりしたもの、やはりピンク色をした、こっそり食べるものを想起させた」(上 175) とはつまり「栄養士の女は食事を思い起こさせ、口にはその食事の結果として出てくる糞便、こっそり食べる糞便を想起させた」ということである。口に含むということで、口唇期的な欲望もまた読み取ることができる。彼は栄養士の女とその連れのセックスを目撃すると同時に、自らの多形倒錯的な性愛を栄養士の女により見咎められ、性的なトラウマを植え付けられることとなる。

 クリスマスの肛門性愛は最初女の肛門への愛として発見されていたが、8歳の彼を襲うこととなるのは男による肛門レイプである。第7章冒頭には「そして記憶はこのことを知っている。二十年経っても記憶はまだ信じている―――この日におれは男になった」(上 213) とあるが、まさしくこの日に彼はマッケカーンにより肛門をレイプされている。長老派教会の教義問答書を暗記しないクリスマスに対し、マッケカーンは罰を与えようと彼を馬小屋へと連れ出す。「マッケカーンは壁から馬具の革紐をとった。彼の靴と同じく、新しくも古くもなかった。靴と同様にきれいにしてあり、その男の匂いと似た匂いがした―――清潔で固く男性的な、生きているような革の匂い。彼は少年を見おろした。」(上 216) ここで、「清潔で固く男性的な、生きているような革の匂いのする」靴と馬具の革紐は、もちろんどちらとも男根のメタファーである。そして、「汚すといかん」(上 218) と少年クリスマスのズボンを下ろすよう命じ、尻に革紐を振りおろすというのはレイプのメタファーである。クリスマスのズボンを汚す恐れがあるものは革紐それ自体ではなく糞便であろう。この時の彼らの様子は、「どちらの顔の方が恍惚として、おだやかで、確信に満ちていたかは、誰にも言いがたかっただろう」(上 218) と説明される。この日のうちにクリスマスはもう一度レイプされ、気を失う。もっとも、第9章でマッケカーンは「彼自身は色欲の罪を犯したためしがなく、そうした話をする人間に耳を傾けたことも一度たりともなかった」(上 294) と説明されており、奇妙なねじれが生じている。実際に起こったレイプであり、かつレイプ妄想に留まるものであり、もしくはただの鞭打ちであるような、ambiguousな記憶の中の、しかしそう信じられるようなクリスマスの記憶の中の出来ごとである。

 彼は成人してなおずっと肛門に関するトラウマにとらわれ続けていたようである。彼の七日間の逃亡のうちにその様子が見て取れる。

 

そしてある日、もはや空腹を感じなくなった。突然、静かに、そんな風になった。爽やかで落ちついた気分だった。それでも、何か食べねばならぬとはわかっていた。無理をして腐った果物を、固いトウモロコシを食べた―――ゆっくりと噛んだが、何の味もしなかった。そういったものを大量に食べ、何度も血便を出す結果になった。それでも、その後すぐ、食べねばならぬという気持ちに、切迫感に、新たにとりつかれるのだった。いまや頭から離れないのは食べ物ではなく、食べねばならぬという気持ちだった。(下 124)

 

 その夜、奇妙な考えが頭に浮かんだ。彼は眠ろうとして横になっていたが、眠ってはおらず眠る必要もなさそうで、それはちょうど、食べ物を欲してもいなければ必要ともしていない胃袋に、食べ物を収めておくように命じてきたのと同じだった。それが奇妙だというのは、その原因も契機も説明も、彼には見つけられなかったためだ。(下 125-126)

 

上の2つの引用部分と類似の表現が、第6章の「彼は自分の上に折り重ねられているようで、自分が汗をかいているのを眺めながら、自分がまたしても芋虫上の練り歯磨きを、胃は欲していないにもかかわらず、口の中に押し込んでいくのを見つめていた」(上 177) という部分にも現れている。胃袋は欲してもいない食べ物を、切迫感の中で、逃亡するクリスマスは今度は実際に血便を垂れ流しながら口にすることとなる。

 彼は最終的に、グリムにより肉切包丁で去勢されるまでトラウマに縛られ続ける。

 

しばらくの間、彼は男たちのそれから彼の顔が、体が、すべてが、崩れ落ちるように、それ自体の中にのめりこむように見え、そして尻や腰のあたりの切り裂かれた服の中から、閉じこめられていた黒い血が、吐き出される息のごとく、ものすごい勢いで流れ出すように見えた、それは、上昇していく狼煙から出る火花のように、その青白い体から噴出するように見え、その黒い噴流に乗って、男は彼らの記憶の中へと永遠に上昇し続けるように思えた。(下 321)

 

尻や腰のあたり、つまり下半身から吹き出す黒い血は、精液かそれとも糞便か。おそらく両方であるだろう。ペニスがあったはずの傷口から流れ出る精液。また、上の引用部分の直前にある「口もとには何か影のようなもの浮かべながら、ただそこに横たわっていた」(下 321)という表現は興味深い。この口もとにある「何か影のようなもの」は「吐き出される息」として勢いを持って流れ出したということであるから、黒い血とはやはり、口/肛門から噴出する糞便でもあるだろう。この場面において、クリスマスに流れる黒人の血、つまり異人種間の性交と、肛門性交という2つの性の欲望に関する「罪」が合流することとなる。そして、その光景を目撃する白人の男たちもまた、彼ら自身の記憶の中に、過去の災いの中にも未来の希望の中にも「それはいつでもそこにある」こととなるのだということまで語られて、第19章は幕を閉じる。

 

  1. 結論

 『八月の光』では、肛門性交という「罪」が異人種間の性交という「罪」と重ねられる形で描かれている。さらに、白人の男たちもまたその「罪」を共有しているのだということも示唆されている。

 

  1. 参考文献

フォークナー (2016) 『八月の光』(上)(下) , 諏訪部浩一翻訳 , 岩波書店

Never Let Me Goについて

十中八九そのうち加筆修正します。

 

1. 序論

 Never Let Me Goは「人間」対「非人間」の構図を「非人間」であるクローンの側から語る物語である。語り手キャシーにより、明確に読み手を想定して語られている設定だが、これはいかなる意義を持つだろうか。

  

2.本論

 

2.1 「人間」対「非人間」

 物語世界において、人間から見たクローンはどのような存在であるか。人間たちにとって、クローンたちは「非人間」、受け入れ難い他者でしかない。

 マダムは生徒たちを怖がっているのだというルースの説を確かめるためにルースとキャシーたちは、マダムの直前で左右二手に分かれすぐ側を通り過ぎるという対マダム作戦を実行する。マダムが恐怖に凍りついたことは予想通りだったが、蜘蛛嫌いな人が蜘蛛を恐れるようにマダムが恐怖していたこと、自分たちが蜘蛛と同じに見られていたことをキャシーたちは突きつけられて打ちのめされる。彼らは施設の外の「人間」たちから得体の知れない何か別のものであるとして認識されていると知る。

 このことはマダムの家へのトミーとキャシーの訪問の場面でも語られる。試験管の中の得体の知れない存在であるクローンたちのことを人間たちは恐れており、クローンのことも、そのクローンたちが育つ環境のこともなるべく考えたくないと思っている。それはマダムやエミリ先生も同じであり、生徒たちに対する恐怖心を抑えるのに必死だったとエミリ先生は述べている。

 人間から見たクローンは「非人間」であり、蜘蛛と同じ「動物」であり、試験管の中の得体の知れない「非生物」である。エミリ先生は、自分とマダムは生徒たちの作品を持って行って展示会を開くことで、クローンたちにも魂と心があるということを証明しようとした。こういう絵を描ける子供達を、どうして人間以下と言えようか、いや言えないだろう、彼らは人間並みであると支援者たちに訴えかけた。しかし彼らはだからと言ってクローンたちを利用する臓器提供に反対するわけではない。例えクローンたちが人間並みであったとしてもそれは「非人間」でしかなく、待遇を改善しようという話にしかならない。

 クローンはオリジナルである「親」のcopyである。ルースが言うには、クローンの「親」たちは薬物中毒者アルコール中毒者、売春婦、浮浪者、犯罪者といった人間の中でもdegenerateしたような者たちのcopyである。degenerateした人間たちの更にdegenerateしたcopyであるとして、クローンたちにあるemotionは顧みられない。

 

2.2 抵抗するクローン

 なぜクローンたちは逃げ出さず、「提供」を運命として受け入れてしまうのか。「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける。」(デュルケーム p.23)とデュルケームは述べているが、まさに彼らの行為は自殺である。なぜクローンたちは抵抗しないのか。

 なぜクローンは抵抗できないのかという問いの方が相応しいかもしれない。ヘールシャムの運営理念は保護することであり、生徒たちに幸せな子供時代を用意するために先生たちは生徒たちに対して物事を隠すこと、嘘をつくことをしていたとエミリ先生は言う。ルーシー先生の言葉を借りれば、クローンたちは自分たちの将来について教えられているようで教えられていなく、考える術を奪われている。ヘールシャムを出た後も、卒業生たちがずっとヘールシャムの生徒であるという意識を持っているという描写が何度も出てくるが、マダムやエミリ先生と再会したトミーとキャシーの様子も、1人の大人というよりは生徒のままであり、彼らが言葉をかわす様は会話というよりは授業でそのことをキャシーも自覚している。

 しかし、クローンの1人であるキャシー、トミーとともに真実をやっと知った彼女は抵抗を始める。彼女がこの物語を語り出した時にはすでに一回目の「提供」の通知が届いていており、クローンとして臓器提供をして死ぬという自分の運命を彼女は受け入れているようである。それでもなお、語るということは意義のある行為である。キャシーたちはヘールシャムにいた頃、マダムに作品が選ばれるという名誉を求めて作品を作っていた。同じようにキャシーは、今度は自分の人生を小説という作品にしようとしている。作品は作者を物語る、作者の内部をさらけ出すということをマダムは教えていたが、キャシーは自分の人生に起こったこと、他のヘールシャムの生徒たちと接する中で生まれた感情の動きを小説にすることで彼女の内部をさらけ出しており、この小説を手に取るであろう「人間」たちに、自分たちクローンにもまた魂があるのだと伝えようとしているのだ。

 

  1. 結論

 Never let me goに出てくるクローンたちは抵抗せず、自分の運命を受け入れているようである。しかし、その中でもキャシーは静かに、もしかしたら意識しないままに抵抗を始めている。その抵抗とはまさに、彼女の人生を語る事、小説を書くという事である。

 

 注

デュルケーム (2010) ,『自殺論』(訳者:宮島孝 , 中公文庫)

“Billy Budd”と”Beau Travail”について

1.序章

 

 第1章では簡単に映画と原作の比較をする。第2章では映画の舞台を確認する。第3章では色と鏡という二つのモチーフを鍵に、主題論的に映画を読み解く。第4章では原作における両価的なオルガズムについて掘り下げる。第5章では原作と同時代的な諸作品を比較しつつ、映画における”beau travail”とは何であったかを探る。以上5つの章とまとめの第6章を通じて、作品のクィア性を追う。

 

1-1.映画と原作の簡単な比較

  Beau TravailはMelvilleのBilly Buddを下敷きとしている。Billy BuddにおけるBilly、Claggart、Vereの3人の登場人物はおおよそBeau TravailにおけるSentain、Galoup、Forestierの3人に対応している。Billy Buddの主人公はBillyであるが、Beau Travailは主にGaloupの視点から物語が進行する。

 以下、簡単にキーワードを挙げながら、それぞれの登場人物のプロフィールの比較をする。

 

Billy Budd (Billy Budd)

21歳。The Rights of Manから徴用される。身寄りの無い孤児。吃音症。美男子。

 

Sentain (Beau Travail)

22歳。外人部隊訓練兵(legionnaire)。身寄りの無い孤児。フランス語は堪能でなく、これはBillyの吃音症とも比較できる。

 

John Claggart (Billy Budd)

船上の警衛に当たる下士官(Master-at-armsでかつPetty Officer)。黒い髪を持つ外国人。

 

Galoup (Beau Travail)

上級曹長(Adjudant-chef)。下士官の中では最高位。国籍については明言されない。建前としてフランス外人部隊には将校以外にフランス国籍を有するものはいないことになっているが、制度上の抜け道はあり、実際に多くのフランス人も志願している。フランスから長く離れすぎたというセリフもあることから、フランスに何らかのルーツを持っているのかもしれない。

 

Vere (Billy Budd)

軍艦Bellipotentの司令官。大佐。子爵であり名門の出。四十そこそこの独身男。

 

Forestier (Beau Travail)

Commandant(少佐)。佐官であることから彼はフランス国籍を有する者として入隊した可能性が高い。「2-2.フランス外人部隊について」を参照せよ。

 

 

2.映画の舞台

 

2-1.ジブチの歴史

 19世紀後半以降のジブチ:1859年から、フランスの民間投資者が過半の出資を行うスエズ運河会社によるスエズ運河の建設が始まった。1875年にはイギリスがスエズ運河筆頭株主となる。1896年、第一次エチオピア戦争中にフランスはフランス領ソマリとしてこの地を植民地化した。1900年にソマリランド戦争が勃発、1920年終結。「アフリカの年」こと1960年以降もソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立は複雑を極めたため独立問題は進まず、フランス領ソマリはフランスの海外県に留まっていた。1967年の住民投票によって引き続きフランス領であることを選択した後、フランス領アファル・イッサ(1967-1977)と改称された。1977年にイッサ人はジブチ共和国として独立。しかし民族対立はおさまらず、1991年にジブチ内戦が勃発した。2001年に内戦は終結した。

 

2-2.フランス外人部隊について

 フランス外人部隊とは、フランス陸軍所属の外国人の志願兵で構成される正規部隊のことである。1831年に創設されて以来現代まで一貫して存在している。

 志願者には17.5歳から39.5歳であること、正当なIDと出生証明書を所持していること、インターポールから指名手配されていないこと、身体的に適格であること、BMIが20から30であることが求められる。一方で、国籍・人種・宗教・フランス語の能力・学歴・資格・社会的地位・職業的地位・婚姻状況・従軍歴は一切不問とのことである。ちなみにGaloupの左胸にも入っているタトゥーだが、ナチスや人種差別主義的なものでないこと、stupidでないもの、顔を覆う大きなものでないものであることを条件に許可されている。

 初期の契約期間(5年)を満了し、滞りなく納税し、現状ではさらに最低2年から3年の延長契約することを条件に、フランス国籍取得の申請手続きが通ればフランス国籍を取得できる。

 フランス外人部隊の構成員は、将校は基本的に全員フランス国籍を有する者で、フランス軍の陸軍士官学校や正規軍下士官からの将校任官を経て外人部隊に配属されたものである。一方下士官以下は基本的に外人志願者である。よって将校は下士官以下とは全く別物であるが、能力と実績があれば、兵卒からたたき上げて将校となることも可能である。

 

2-3.ジブチ駐留フランス軍について

 1977年にジブチ共和国との間で交わされた防衛協定に基づき、ジブチにはフランス軍が駐留している。ジブチ駐留フランス軍は、アフリカ大陸に展開しているフランス軍舞台の中では最大規模を維持している。かつては第13外人准旅団も駐屯していたが、2011年7月3     1日にアラブ首長国連邦に移駐した。

 Galoup達が所属しているのはこの第13外人准旅団だと考えられる。13というユダの数字を背負う外人部隊である。とすると、赤いテーブルクロスの敷かれた午餐は最後の晩餐の変奏であろう。彼らの中にクローゼットの中の「裏切り者」---ホモソーシャルの中に密かに同性への過剰な欲望を持ち込む者---が潜んでいるのだ。また、ジブチで現地民により売買されるラグが伝統的に「13本の縞」の絵柄を持つというのも、13という数字がフランスから見た「オリエンタル」としての象徴であると考えられる。

 ちなみに1976年5月24日、軍事訓練の最中にフランス軍のヘリコプター(SA 330B PUMA)が南ジブチのHolholの近く、Djadjaboka谷線(thalweg)に墜落し、8人が死亡している。そのうち6人はlégionnaire(訓練生)であった。おそらく映画内で描かれるヘリコプター事故はこれを下敷きにしているのだろう。

 

2-4.時代設定: BillyからSentainへの年齢変更

 Billyは21歳である。Billy Buddの舞台は1797年であるから、彼が生まれた年は1776年、つまり「自由の国」アメリカが生まれた年でもある。彼は商船”Rights-of-Man”から英国軍艦に強制徴用される。彼はまさに人権の象徴である。

 ところで、Sentainは22歳である。Billyの年齢設定が明らかに意図的なものであるから、この変更もまた意図的になされたものであると考えられる。

 Sentainが生まれた年には何が起こったのだろうか。そのためにはまず映画の舞台を定める必要がある。2-3で述べたヘリコプター事故の起った1976年が舞台であろうか。しかし、その21年前、1955年に起った特別な事件は見当たらない。では、映画が公開された1999年はどうだろうか。これならうまく説明がつきそうである。先ほども述べたが1977年には、フランスとジブチ共和国との間で防衛協定が交わされており、それに基づきジブチにフランス軍が駐留している。第二次世界大戦が終わり、「アフリカの年」を経て、「新たな植民地支配」の形が誕生した年にSentainは生まれたとでも言えようか。もしそうなら、自由とともに生まれたBillyとは対照的であり、実に皮肉的である。

 

 

3.Beau Travailについて-主題論的視点より

 映画の視覚的なモチーフについて、色と鏡を扱う。単色、ないし色の組み合わせはそれぞれあるイメージを象徴している。また、鏡というモチーフからは視線の問題について掘り下げてみる。

 

3-1.モチーフ:色

 バーで男女の身体の上を走る色の奔流はその後それぞれに抽出され、作用し合う。主題としての青は見つけやすい。そこに滲み出す赤。2つの主題は棺にかけられたトリコロールで合流する。青と赤の間に流れる白。フランス外人部隊隊旗が結ぶ緑と赤。

 

3-1-2.青

 訓練する男達の背景を印象的に埋め尽くす空。海を背に視線を奪い合うSentainとGaloup。青はマスキュリンの体現であるようでいて、海は階調のうちに緑へと溶かし込まれる。また、原作のBillyは空色の眼であった。

 

3-1-3.赤

 血と受動性。すなわち受傷した男のイメージである。また、アダムことBillyが楽園で食べた知恵の実の色でもある。

 以下、映画で赤が出てくる場面の一部を列挙する。

 

  • 冒頭、壁画に描かれた空の色。空の中には、反転されたフランス外人部隊の隊旗(赤と緑)のような図案。
  • 黒の中に浮かび上がる出演者の名と題字の色。
  • Forestierが車の中で血について言及すると、その顔は赤く照らされる。赤が血の表象として現れる予兆である。
  • 赤いドレスを着た少女がベッドに寝そべる。彼女はGaloupの現地の恋人である。これは見られる客体としての赤である。同時に、ヨーロッパの「他者」としての赤でもある。
  • 海の中で握られるナイフにより、海(しかしこれは青か緑か区別のつけにくい)の中に赤が滲み出すことが予見される。その予見はヘリコプターの墜落により裏付けられる。
  • 青いテーブルの上にかけられた赤いテーブルクロス。
  • 罰則として穴掘りを命じられた兵士の手に滲む血。
  • 兵士たちが囲む燃え盛る焚き火に対し、Galoupが咥えるタバコの明滅する光。彼のアイデンティティは明滅とともに揺らぎを見せる。
  • ラスト、緑のベッドに横たわった主人公が銃を握る時、当然予見されなければならない色。ナイフが画面に赤をもたらしたように、銃は血と受動性をGaloupに導き入れる。

 

3-1-4.白

 「穴掘り」(または「アナル掘り」)をした後地面に現れる二本の白い筋。塩湖で力尽き横たわるSentainにこびりついた白い塩。精液の暗喩。また、酒場に向か兵士たちが着用していた軍服も白色であった。

 

3-1-5.緑

 外国人としてのアイデンティティの色。アイデンティティの曖昧さを表象する色。クィアの色。

 以下、映画で赤が出てくる場面の一部を列挙する。

 

  • 赤との組み合わせで、フランス軍外人部隊隊旗の色である。また、部隊の制服も緑。そしてグリーンベレーフランス外人部隊の象徴の一つである。
  • 美しい若き頃のForestierの写真は緑色の手帳の上に置かれている。
  • ビリヤードテーブルの緑色の羅紗の上、キューでボールを転がし合うForestierとGaloup。実際二人がセックスしたかどうかは別にして、セックスの言い換え。また、ボールの転がる先を不安げに見つめるGaloupはアイデンティティが揺らいでいるとも言えるかもしれない。
  • Sentainは緑色の文字が刻まれたコンパスを手に歩く。しかしそのコンパスはGaloupにより不正に書き換えられている。

 

3-1-6.青・白・赤

 トリコロールによって三位一体を成す。青い空を背景に行われる訓練は、

身体への虐待、受傷した男のイメージを連想させながら赤へと推移していく。青と赤は精液により間を取り持たれる。また、三位一体といえば、SentainとGaloup、Forestierの三人が構成する聖家族も連想させる。

 

3-2.モチーフ:鏡

鏡は、ジキルの男らしさを欠く恥ずべきナルシシズムを証明するだけではなく、同性愛を扱った文学において鏡を脅迫的なシンボルにする仮面と他者の関係を示してもいる(『性のアナーキー』、E・ショウォルター)

 

 Forestierは鏡を覗き込む。また、別の場面ではGaloupも髭を剃ろうと鏡を覗き込む。しかしこの時GaloupはForestierに見られていることに気がついていない。彼は鏡の中の自分の姿を見つめ、さらにForestierからの一方的な視線に晒されている。

 また、この鏡にはダンスホールにも貼られている。菱形タイル状に敷き詰められた鏡を通してGaloupは虚像としての女性を見る。そしてラスト、Galoupはこの鏡の横で踊る。

 

 

4.Billy Buddについて-身体の制御の失落、またはアウフーベン的なオルガズム

まずはBilly Buddについて以下の引用部分について掘り下げてみよう。

 

At the penultimate moment, his words, his only ones, words wholly unobstructed in the utterance were these—”God bless Captain Vere!” Syllables so unanticipated coming from one with the ignominious hemp about his neck— a conventional felon’s benediction directed aft towards the quarters of honor; syllables too delivered in the clear melody of a singing-bird on the point of launching from the twig, had a phenomenal effect, not unenhanced by the rare personal beauty of the young sailor spiritualized now thro’ late experiences so poignantly profound.

Without volition as it were, as if indeed the ship’s popu- lace were but the vehicles of some vocal current electric, with one voice from alow and aloft came a resonant sym- pathetic echo—”God bless Captain Vere!” And yet at that instant Billy alone must have been in their hearts, even as he was in their eyes.

At the pronounced words and the spontaneous echo that voluminously rebounded them, Captain Vere, either thro’ stoic self-control or a sort of momentary paralysis induced by emotional shock, stood erectly rigid as a musket in the ship-armorer’s rack.

 

 

吃音症状のあるビリーが「いまはなんらの舌もつれもなく」言葉を発する。彼は死刑という究極の身体の制御の放棄と同時に、舌を制御下に置く。ヴィア艦長に向けたその言葉は、ヴィア艦長を「まるで武器庫に立てかけたマスケット銃そっくり」に硬直したかのように、不動の姿勢で立ちつくさせる。つまり、ヴィア艦長を勃起させる。また、「瞬間麻痺症」と、彼が身体の制御を失ったことも記述される。さらにビリーは一同の心を占有する。その姿により一同の視覚を占有する。そしてその舌から言葉を人ならざるこだまとして共鳴させる。吊り上げられ天へと向かうビリーの男根的な姿は、一同を犯し、麻痺させる。

 この類型はポーの『ヴァルデマール氏の死の真相』にも表れている。死を前にしたヴァルデマール氏は催眠術を通し主人公に身を預けることを進んで望む。つまり、身体の制御が失われることを進んで欲望する。また、彼は催眠術にかけられると痙攣し、また、吃音の症状を見せる。彼はこの点において身体の制御を進んで捨てており、受動性を帯びている。しかし、彼は同時にファリックなシンボルとしての特徴も多々持つ。例えば、彼のめくれた上唇からは腫れて黒ずんだ舌が丸見えになる。『レディ・サノックスの事件』(コナン・ドイル)でストーンがヴェールをつけた女性の下唇からV字型の肉片を切り取ったのは、女性器からクリトリスを切除することの比喩であった(『性のアナーキー』、E・ショウォルター)が、ここではヴァルデマール氏の顔面に配置された女性器から、腫れて黒ずみ痙攣する男性器が生えてくるのだ。ここで、先ほども述べた、ビリーの舌が同じく男根的な象徴であろうことを思い出しても良いだろう。そして催眠術が解けた瞬間、彼はベトベトした液体となって主人公たちの手を汚す。彼は射精し、主人公たちを犯す。

 Billy Buddに話を戻そう。ヴァルデマール氏の死とは異なり、Billyの処刑においては痙攣が欠如している。その理由について、the Surgeon による「仮説」が一応示される。

 

Even should we assume the hypothesis that at the first touch of the halyards the action of Budd’s heart, intensified by extraordinary emotion at its climax, abruptly stopt—much like a watch when in carelessly winding it up you strain at the finish, thus snapping the chain

 

「ゼンマイが巻かれすぎたために」揚索に接触した瞬間に「鎖がプツンと切れ」、オルガズムを迎えたビリー。「そこでビリーの「手足を縛られた姿」(1427)は薔薇色の肉体であると同時に「ヤードの先端から垂れ下がった真珠」(1434)つまり真珠のような射精液でもある」(セジウィック)。しかし一方でセジウィックは、ビリーの死の瞬間における「筋肉系統の機械的痙攣」の欠如という「異変」は「すなわち勃起またはオーガズムの説明不可能な不在」であると述べる。

 ビリーの身体は絞首による当然予想される結果、糞尿の垂れ流し/漏精を起こさない。彼の「オルガズム」は、「男性的」なオルガズム(ウェットオルガズム)と「女性的」なオルガズム(ドライオルガズム)という2つの両価性を持つ。

 Billyもヴァルデマール氏も、アナル的(「受動的」)かつ男根的(「能動的」)なオルガズムをアウフーベン的に同時に成し遂げ、彼らは両性具有という「完全な」姿となった。

 

 

5.「美しき仕事」とは何であったのか

 Billy Buddの同時代的な諸作品を比べつつ、”beau travail”が示すものについて考察する。

 

5-1.習慣への固執:アタスン/マイクロフト/ヴィア艦長/Galoup

 「空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れ」(ショウォルター)、慎重に身を律する男たちについて。

 

5-1-2. アタスン:The Strange Case of Dr. Jykyll and Mr. Hyde

 アタスンは年代物の美酒への好みを矯正しようとジンを飲み、お堅い神学の本を読んで夜を過ごす。本当は芝居を見るのが好きなのに、二十年も劇場のドアをくぐったことがない。ショウォルターに言わせると、彼は空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れている。

 しかしジキルと同様、アタスンにも秘密にしておかねばならない一面があった。

 

‘I incline to, Cain’s heresy,’ he used to say. ‘I let my brother go to the devil in his quaintly: ‘own way.’

 

そしてアタスンにもリチャード・エンフィールドという、遊び人で年下の、特別な男性の友人がいる。二人は毎週日曜のたびに散歩をするが、”It was a nut to crack for many, what these two could see in each other, or what subject they could find in common. “なのである。そして物語終盤、アターソンは執事のプールとともに斧を振るい、鍵のかかったドアを破った先にキャビネットの中に置かれていたジキルの姿見を発見する。

 

「アターソンがジキルの赤いベーズ布地で張られたドアの後ろに見たのは、鏡に映った自分自身の顔であり、無知と斧とをもってしても打ち砕くことのできない、抑圧され、苦しみにみちた欲望の姿であった。」(ショウォルター)

 

5-1-3. マイクロフト:シャーロック・ホームズシリーズ

 シャーロック・ホームズの兄、マイクロフトも習慣の人である。

 

Mycroft lodges in Pall Mall, and he walks round the corner into Whitehall every morning and back every evening. From year ’s end to year ’s end he takes no other exercise, and is seen nowhere else, except only in the Diogenes Club, which is just opposite his rooms.

You don’t expect such energy from me, do you, Sherlock? But somehow this case attracts me.

 

 

そして彼は「発話禁止」の”queer”なクラブ、ディオゲネスクラブの一員である。

 

The Diogenes Club is the queerest club in Lon- don, and Mycroft one of the queerest men.

 

5-1-3.ヴィア艦長:Billy Budd

 彼は”grave in his bearing, evinced little appreciation of mere humor”な男である。しかし、”Starry Vere”の実は感受性豊かな一面も同時に紹介される。

 

As with some others engaged in various departments of the world’s more heroic activities, Captain Vere, though practical enough upon occasion, would at times betray a certain dreaminess of mood. Standing alone on the weather- side of the quarterdeck, one hand holding by the rigging, he would absently gaze off at the blank sea. At the presentation to him then of some minor matter interrupting the current of his thoughts he would show more or less irascibility; but instantly he would control it.

 

また、彼は処刑されたビリーを前にして、”thro’ stoic self-control”のためか、はたまた”a sort of momentary paralysis induced by emotional shock”のためか、武器庫に立てかけたマスケット銃(ファリックなシンボル)よろしく彼は不動の姿勢で硬直したように立ち尽くす。ユーモアにほとんど興味を示さず禁欲主義的なヴィアも実はqueerな存在であったという暴露である。

 

5-1-4. Galoup:Beau Travail

 道を踏み外さぬよう心がけるという性質は、ヴィア艦長に対応する登場人物であるForestierよりは、むしろよくGaloupに現れているように思われる。彼のその性質はマイクロフトのように習慣への固執、もっともそれはGaloup自身の固執というよりはカメラアイによる固執であるが、洗濯、物干し、アイロン掛けという形をとって現れる。このある種「女性的」な作業を兵士たち、特にGaloupが行う様をカメラは執拗に映し出す。ベッドメイクングもその類似だ。Galoupは銃を握るその直前まで道を踏み外さぬよう葛藤し続ける。さらに、この「習慣」には軍隊における訓練も含まれるであろう。一定のコースを各隊員が辿る訓練、隊員の各々の身体が画一の運動をするよう定められた体操も、彼らの身体が「無秩序な想像力の領域」へと放逸するのを律しようという試みのもとなされているのだ。

 しかしこれらの規則的な身体の運動は、映画ラストのGaloupの無軌道で不格好なダンスにより打ち破られる。彼はついに「道を踏み外した」のである。同一化したい「フランス」から地理的に離れることによりアイデンティティを保持していた彼は、フランスに戻された今、自己同一性を崩壊させる。

 以上、洗濯、物干し、アイロン掛け、ベッドメイキング、そして訓練がタイトルの表す”beau travail”であると筆者は考える。

 

 

6.まとめ

 

 以上、男の欲望が男へと向けられる様々な形態---眼差し、色、地理、習慣etcを追ってきた。美しい男が男のみを構成員とする組織に放り込まれて、動揺ないし組織の強化が起こる。そのどちらを描いている、と断言することは難しい。このギリギリの均衡を読み解くのはスリリングで興味深い。

 今回時間が足りなかったが、今後の課題としては、人ならざる音---しかしそれはしばしば人間によって発せられる声である---という観点から、作品を読み解いてみたいと思う。

 

 

7.参考文献

 

『アデル、ブルーは熱い色』を取り巻く性の政治

 『アデル、ブルーは熱い色(原題:La vie d'Adèle Chapitres 1 et 2)』はアブデラティフ・ケシシュ監督による作品である。フランスでは2013年5月23日、日本では2013年10月25日に公開された。本作は第66回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得し、また『バラエティ』のジャスティン・チャンの、近年記憶される中でも最も爆発的な写実的性行為シーンが含まれるとの評のように、特に女性間の性行為シーンが話題を呼んだ。

 まず、性行為シーンの各国の公開の扱いについて簡単に述べる。アメリカ合衆国ではカットなし、ボカシなしで公開されたものの、アメリカ映画協会が過激な性描写を理由に本作をNC-17に指定したことにより、商業的な打撃を受けている。日本でもノーカットで劇場公開されたが、映画倫理委員会からR18+に指定され、興行した映画館が大幅に限られた。また、DVDレンタルでは性行為シーンが2つカットされている。

 筆者が『アデル、ブルーは熱い色』を観たのは2年前、レンタルDVDによってであった。その後、セックスシーンがカットされていたと知り、該当部分を確認したくて、インターネット上にアップロードされていないか探していた。動画はすぐに見つかった。XVideosにセックスシーンのみをつなげた複数の動画がアップロードされていたのである。XVideosはアメリカの世界最大級のアダルト動画共有サービスである。2017年1月21日現在でもたくさんアップロードされたままである。そのうちの一つのタイトルはblue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENEだ。映画の一部分が切り取られ、ポルノ動画としてアダルト動画共有サービスに投稿されているというのはなかなか衝撃的であった記憶がある。スティーブン・スピルバーグはカンヌで「これは同性愛の物語ではなく、素晴らしい愛の物語だ」などと述べているが、セックスシーンは切り取られ、まさにレズビアンがファックしている動画として扱われているのだ。

 主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥは、アブデラティフ・ケシシュ監督の撮影方法についてメディアに度々苦言を述べている。以下はレア・セドゥのインタビューからの引用である。

 

Abdel would kill me, he hates fabrication. He wants us to really be smoking a joint and drinking beer. Sometimes too much. He wants to be close to the truth every time. We are drinking real wine. The man who plays the Emma's stepfather is one of the producers and he was so drunk in one scene. You just listened to his voice and you knew it wasn't useable – he was so drunk and saying things that weren't the subject of the film.(METRO)

 

 アブデラティフ・ケシシュ監督の完璧主義は様々なシーンの撮影にわたるが、映画に出てくる10分間のセックスシーンは撮影に丸々10日間かかったらしい。度々屈辱的に感じることがあったとレアは特に性行為シーンの撮影について批判している。

 

Was there anything that she refused to do? “Yes, cunnilingus!” Seydoux laughs. “We had fake pussies on. You have something to protect and tape it under. I don't make love on screen. We can fake these things, you can't fake feelings, but you can fake body language.” Did they ever worry they were merely playing out a male fantasy? “Yes. Of course it was kind of humiliating sometimes, I was feeling like a prostitute. Of course, he uses that sometimes. He was using three cameras, and when you have to fake your orgasm for six hours... I can't say that it was nothing. But for me it is more difficult to show my feelings than my body.”(METRO)

 

インタビュアーは、彼女らがただ単に”male fantasy”を演じることにはならないかと心配はしなかったかと尋ね、レア・セドゥはそれに”Yes”と答える。実際撮影は屈辱的なものであったし、自分の体でなく自分の感情をみせることに苦労したと。

 また、ここで興味深いのは、レア・セドゥが繰り返し、演技はボディー・ランゲージの面においてfakeであったと主張することである。偽物の性器にクンニリングスをし、オルガズムを偽装したと。これに対し、アブデラティフ・ケシシュ監督は演技がrealであることを繰り返し演者に求める。上にも引用したが、彼はfabricationを嫌い、演者にrealのアルコールを飲ませ、そして長時間の撮影を通して演者がrealな性的興奮を表現することを求める。また、『アデル、ブルーは熱い色』の原作はLe bleu est une couleur chaudeであるが、これの主人公の名前はアデルではなくクレモンティーヌである。監督が主演女優アデル・エグザルホプロスの名前を使うことを要求したことが原因で、映画の主人公の名前はアデルに変更された。ちなみに監督はエマの名前もレアに変更することを要求したが、これはレアが拒否したことにより通らなかった。アブデラティフ・ケシシュ監督の、fakeではなくrealだということを装わせるやり方は、ポルノ的であるとも言える。

 レア・セドゥやアデル・エグザルホプロスが撮影中に屈辱感を得たという点において、マッキノンの言う”The women in it may dissociate to survive, but it is happening to their bodies. “(pp.26)なる主張は確かにある一定の正当性を持つ。しかし、マッキノンはその後、演者の身に起こっていることと演者以外の女性一般の身に起きていることとを混同させながら論を進めていく。また、ドウォーキンの主張、ポルノにおいて起こっていることがすなわちそのまま女性一般の身に起こっていることであるというのは本当であろうか。マッキノンやドウォーキンのロジックを使って例えばこの映画を規制することは正当であるだろうか。

 マッキノンは、ポルノが現実と等しく経験に代わることによって男性に性的興奮を与えているとも述べる。男性はポルノを見て勃起し、レイプをするのだと主張する。しかし、マッキノンのような、男性は男性役のみに、女性は女性役のみに感情移入をするという主張が正しいとするならば、『アデル、ブルーは熱い色』における女性間の性行為シーンには、男性は感情移入ができず、したがって性的興奮も得ないことになってしまう。また、勃起して性行為シーンを再現しようと試みるにしても、そもそも再現しようがない。マッキノンのロジックを用いたままこの映画を規制しようとすることは矛盾している。

 バトラーはこのような、ファンタジーと表象と行為の間に連続な因果関係を見出すやり方に反論している。

 

There is, then, strictly speaking, no subject who has a fantasy, but only fantasy as the scene of the subject’s fragmentation and dissimulation ; fantasy enacts a splitting or fragmentation or, perhaps better put, a multiplication or proliferation of identifications that puts the very locatability of identity into question. (pp.110)

 

Here again there is no interpretive leeway between the representation, its meanings, and its effects ; they are given together , in one stroke - as it were - as an instantaneous teleology for which there is no alternative. And yet, if this were true, there could be no analysis of pornography. Even from within the epistemological discourse that Dworkin uses, one which links masculinity with agency and aggression, and femininity with passivity and injury, her argument defeats itself. (pp.113)

 

女性がそのような表象を観ること自体が中傷を呼び起こし、視聴者はその視覚的暴力の受動的受容者となってしまうのならば、女性が批判的分析をする余地はあらかじめ排除されてしまう。また、バトラーは”Prohibitions work both to generate and to restrict the thematics of fantasy.”とも述べる。性的な場面を禁止することは、同時に生産である。この生産は、排除の原則のもとに、想像可能性を規制してしまう。

 具体的に、『アデル、ブルーは熱い色』に話を戻すと、『アデル、ブルーは熱い色』の性行為シーンを規制してしまうことは、その性行為シーンの想像可能性を規制してしまう。禁止することで、本作の女性間の性行為シーンは、男性がマスターベーションに用いる”LESBIAN FUCKIN SCENE”との解釈に限定されてしまうのだ。

 以上『アデル、ブルーは熱い色』を通して見てきた通り、性的表現を禁止してしまうことそのものが一つのファンタジーであり、性行為シーンの読解の仕方を限定してしまう。ある映画をNC-17にしてしまうことで、例えばレア・セドゥが自身の体以上に感情を表現しようとした試みは弱められ、その性行為シーンは「不適切で卑わいな」性行為として強制的に矮小化されてしまう。「ポルノ規制」をすることには問題があるであろう。

 しかし、演者自身が実際に性行為を演じ、そのことによって苦痛を感じたと主張していることも事実である。作品に対する多様な読みが可能となったとしても、その事実は残されたままだ。規制とは別の形をとって、作品の制作という場面において俳優、特に女性の俳優の立場、待遇について議論していくことは必要であろう。

 

 

参考文献

 

  • MacKinnon, Catharine A. Only Words. Harvard University Press, 1993. Chapter 1.
  • Dworkin, Andrea. “Against the Male Flood: Censorship, Pornography, and Equality”. Drusilla Cornell ed. Feminism and Pornography. Oxford University Press, 2000. pp. 19-38.
  • Butler, Judith. “The Force of Fantasy: Feminism, Mapplethorpe, and Discursive Excess.” differences 2.2 (1990): pp. 105-125.
  • blue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENEhttp://www.xvideos.com/video6542162/blue_is_the_warmest_color_lesbian_fuckin_scene)2017年1月22日閲覧

A Midsummer Night's Dream(だいたい第三幕第二場について)

1.モチーフ:蛇

3.2.68-73

O, once tell true ; tell true, even for my sake !

Durst thou have look’d upon him being awake,

And hast thou kill’d him sleeping ? O brave touch !

Could not a worm, an adder, do so much ?

An adder did it ; for with doubler tongue

Than thine, thou serpent, never adder stung.

 

2.2 144-150

Help me, Lysander, help me ; do thy best

To pluck this crawling serpent from my breast.

Ay me, for pity ! What a dream was here !

Lysander , look how I do quake with fear.

Methought a serpent eat my heart away,

And you sat smiling at his cruel prey.

 

 この蛇はまず『創世記』に出てくる、アダムとイヴを誘惑してエデンの園から追放される原因を作った蛇として不吉なことのシンボルである。そして、「体を隠したくなる」性的なことのシンボルである。また、精神分析学的に、ファリックなシンボルでもある。

 Hermiaは第三幕二場で、Demetriusが(牙でなく)’doubler tongue’でLysanderを刺したと疑っている。’doubler tongue’は勿論蛇の舌ということで狡猾なイメージを表象し、更に「舌」それ自体もまたファリックなシンボルである。ファリックなシンボルでDemetriusがLysanderを「後ろから」刺したというのだから、Hermiaはレイプ事件を疑っていたか。後背位による性交は「ソドミー」である。もちろん肛門性交だって「ソドミー」であるが。また、’brave touch’というのも、大修館版では’courageous stroke’、つまり反語的用法として「勇ましい一撃ち」を言い換えとして説明できるとしているが、むしろ「勇ましい愛撫」とでも解釈できる可能性は無きにしもあらずだ。

 また、蛇というモチーフを用いることによって、そもそも人間側の性欲が描かれているという点が興味深い。妖精側にとっては恋に性行為はつきものであり、また人間側にとっては建前として、恋はプラトニックな面が大事とのことである。森に住む「動物的」な妖精たちと、都市に住む「理性的」な人間が対比されている。しかし、夢の中でHermiaの胸の上を蛇が這い、またDemetriusを非難するのに蛇というモチーフを使用するというのは、Hermiaら人間の側にも性的な欲望があるということを示している。

 

2.モチーフ:双子

 

3.2.198-216

Is all the counsel that we two have shar’d,

The sisters’ vows, the hours that we have spent,

When we have chid the hasty-footed time

For parting us – O, is all forgot?

All school-days’ friendship, childhood innocence?

We, Hermia, like two artificial gods,

Have with our needles created both one flower,

Both on one sampler, sitting on one cushion,

Both warbling of one song, both in one key ;

As if our hands, our sides, voices, and minds,

Had been incorporate.

So we grew up together,

Like to a double cherry, seeming parted,

But yet an union in partition,

Two lovely berries moulded on one stem ;

So, with two seeming bodies, but one heart ;

Two of the first, like coats in heraldry,

Due but to one, and crowned with one crest.

And will you rent our ancient love asunder,

To join with men in scorning your poorfriend?

 

 Helenaのセリフにおいて、双子のサクランボや楯型の紋章の左右それぞれの部分(結婚すると男性の家紋と女性のそれとが、左右の両半分のそれぞれを占める)などになぞらえながら、非常に仲良く一緒に育ったHermia/Helenaという双子のテーマが示されている。ここでは、2人が1つの経験や道具を共有し、2人が一心同体であった(”As if our hands, our sides, voices, and minds, Had been incorporate”)ことが強調されている。彼女たちは仲が良いだけでなく、鏡写しのようにそっくりに育ったのである。当時、子供達にとって親との精神的な結びつきはごくごく弱いものであり、彼らにとって大事だったのはむしろ一緒に育つ子供達同士の結びつきであったという背景がここには現れている。

 しかしHelenaは、Hermiaが”our ancient love”を2つに裂こうとしており、かつHermiaとLysanderとDemetriusの3人で共謀して自分を貶めようとしているのだと疑っている。Helenaは鏡写しではあるがなぜだか自分よりも魅力的であると感じてしまうHermiaと対峙する。同じ森の中という舞台に置かれているのに、HelenaとHermiaには全く異なった人間関係が見えている。「正しい」状況を俯瞰できているのは観客だけだ。登場人物の間の認識の相違が状況を動かす契機となり物語は展開していく。

 人間たちをmanipulateしようとする妖精たちも、少なくとも今の時点では失敗している。この試みが失敗する構図は秩序の森を出た外の世界でも見られる。第五幕第一場で脚本家が演者たちをmanipulateしようとして失敗したのは都市においてであった。主に秩序を担当するのは都市、無秩序を担当するのは森であるというのは確かであるが、その境ははっきりしたものであるとは言えない。

 

3.ガラントリーの欲望

 A Midsummer Night’s Dreamが執筆された当時はエリザベス女王の治世である。エリザベス女王という「雲の上の人」であり国全体を動かしてしまう主人はさながら妖精の女王Titaniaである。

 エリザベス女王は結婚することを議会や廷臣たちに懇願されていたが、ついに結婚することはなかった。年を経るごとに彼女は処女であることで有名になり、彼女の未婚は処女性への崇拝を生じさせた。1599年には彼女は「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。

 PuckとTitaniaが夜を共にするということは、観劇する男性がPuckを自分に、Titaniaを女王に重ね合わせるファンタジーとしても働くであろう。しかし、女王と観客男性を「姫と騎士」の構図になぞらえてみると、実際に肉体的に結ばれるということは目標となりそうにない。そもそもエリザベス女王の処女性を崇拝しているのだから、彼女と交わって処女性を奪ってしまうということは本来避けなければならないことなのである。だが、それでも騎士からは程遠いBottomとして女王と床を共にしてしまいたいというような願望が作品の中で投影される。

 

 

『忌まわしき花嫁』考察

 BBCドラマSHERLOCKのシーズン3からシーズン4の間に位置する『忌まわしき花嫁』についての考察。続くかも。

 

 ホームズは飛び降りることにより目覚めようとする。「ハードディスクのウイルス」を倒し、今度こそワトソンに背中を見守られながら飛び降りたラストは問題の解決を提示したかにみえる。しかし物語中、マインドパレスでは意識の深度と物理的な昇降はしばしば印象的に関連付けられている。(例:撃たれたホームズが意識を取り戻そうと這い登る階段(または221bへの階段)、ミルヴァートンがマインドパレスの入り口で下降する螺旋階段(s3e3)、「古い事件だ。深みへ行かねばならない。」、「miss me?」のタグを見たホームズが階段を降り歪む視界、地下牢を出て階段を上り221bに現れるモリアーティー(『花嫁』))お前は自身が意図していたより深いところにいるのだと『花嫁』でマイクロフトは警告する。しかしむしろホームズは、自身の最深部へと沈み込んでしまったモリアーティーを追い、自ら下へ下へと落ちていってしまった。
 また、モリアーティーを指して繰り返し使われる表現である「ハードディスクのウイルス」であるが、原作の「筆者」たるワトソンの言葉つまりボヘミアの醜聞の冒頭部分を借りたマイクロフトに言わせればモリアーティーは「レンズのヒビ」でもある。頻度は少ないが、原作の言葉を借りたこちらの表現の方が重要な暗喩だ。原作において「レンズのヒビ」とは精密な思考する機械であるホームズにとって致命傷にもなりうる忌避すべき「あらゆる激情、特に愛(『ボヘミアの醜聞』)」を指している。ホームズのpressure point、「あらゆる激情、特に愛」。マインドパレスにおいてモリアーティーがこれを表象することになったとは皮肉だ。そして「レンズのヒビ」は、よりによってワトソンにより滝壺へと突き落とされたのだった。