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black diary

ペーペーの英文科学部生です。いろいろご指摘いただけると嬉しいです。

『アデル、ブルーは熱い色』を取り巻く性の政治

 『アデル、ブルーは熱い色(原題:La vie d'Adèle Chapitres 1 et 2)』はアブデラティフ・ケシシュ監督による作品である。フランスでは2013年5月23日、日本では2013年10月25日に公開された。本作は第66回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得し、また『バラエティ』のジャスティン・チャンの、近年記憶される中でも最も爆発的な写実的性行為シーンが含まれるとの評のように、特に女性間の性行為シーンが話題を呼んだ。

 まず、性行為シーンの各国の公開の扱いについて簡単に述べる。アメリカ合衆国ではカットなし、ボカシなしで公開されたものの、アメリカ映画協会が過激な性描写を理由に本作をNC-17に指定したことにより、商業的な打撃を受けている。日本でもノーカットで劇場公開されたが、映画倫理委員会からR18+に指定され、興行した映画館が大幅に限られた。また、DVDレンタルでは性行為シーンが2つカットされている。

 筆者が『アデル、ブルーは熱い色』を観たのは2年前、レンタルDVDによってであった。その後、セックスシーンがカットされていたと知り、該当部分を確認したくて、インターネット上にアップロードされていないか探していた。動画はすぐに見つかった。XVideosにセックスシーンのみをつなげた複数の動画がアップロードされていたのである。XVideosはアメリカの世界最大級のアダルト動画共有サービスである。2017年1月21日現在でもたくさんアップロードされたままである。そのうちの一つのタイトルは”blue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENE”だ。映画の一部分が切り取られ、ポルノ動画としてアダルト動画共有サービスに投稿されているというのはなかなか衝撃的であった記憶がある。スティーブン・スピルバーグはカンヌで「これは同性愛の物語ではなく、素晴らしい愛の物語だ」などと述べているが、セックスシーンは切り取られ、まさにレズビアンがファックしている動画として扱われているのだ。

 主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥは、アブデラティフ・ケシシュ監督の撮影方法についてメディアに度々苦言を述べている。以下はレア・セドゥのインタビューからの引用である。

 

Abdel would kill me, he hates fabrication. He wants us to really be smoking a joint and drinking beer. Sometimes too much. He wants to be close to the truth every time. We are drinking real wine. The man who plays the Emma's stepfather is one of the producers and he was so drunk in one scene. You just listened to his voice and you knew it wasn't useable – he was so drunk and saying things that weren't the subject of the film.(METRO)

 

 アブデラティフ・ケシシュ監督の完璧主義は様々なシーンの撮影にわたるが、映画に出てくる10分間のセックスシーンは撮影に丸々10日間かかったらしい。度々屈辱的に感じることがあったとレアは特に性行為シーンの撮影について批判している。

 

Was there anything that she refused to do? “Yes, cunnilingus!” Seydoux laughs. “We had fake pussies on. You have something to protect and tape it under. I don't make love on screen. We can fake these things, you can't fake feelings, but you can fake body language.” Did they ever worry they were merely playing out a male fantasy? “Yes. Of course it was kind of humiliating sometimes, I was feeling like a prostitute. Of course, he uses that sometimes. He was using three cameras, and when you have to fake your orgasm for six hours... I can't say that it was nothing. But for me it is more difficult to show my feelings than my body.”(METRO)

 

インタビュアーは、彼女らがただ単に”male fantasy”を演じることにはならないかと心配はしなかったかと尋ね、レア・セドゥはそれに”Yes”と答える。実際撮影は屈辱的なものであったし、自分の体でなく自分の感情をみせることに苦労したと。

 また、ここで興味深いのは、レア・セドゥが繰り返し、演技はボディー・ランゲージの面においてfakeであったと主張することである。偽物の性器にクンニリングスをし、オルガズムを偽装したと。これに対し、アブデラティフ・ケシシュ監督は演技がrealであることを繰り返し演者に求める。上にも引用したが、彼はfabricationを嫌い、演者にrealのアルコールを飲ませ、そして長時間の撮影を通して演者がrealな性的興奮を表現することを求める。また、『アデル、ブルーは熱い色』の原作はLe bleu est une couleur chaudeであるが、これの主人公の名前はアデルではなくクレモンティーヌである。監督が主演女優アデル・エグザルホプロスの名前を使うことを要求したことが原因で、映画の主人公の名前はアデルに変更された。ちなみに監督はエマの名前もレアに変更することを要求したが、これはレアが拒否したことにより通らなかった。アブデラティフ・ケシシュ監督の、fakeではなくrealだということを装わせるやり方は、ポルノ的であるとも言える。

 レア・セドゥやアデル・エグザルホプロスが撮影中に屈辱感を得たという点において、マッキノンの言う”The women in it may dissociate to survive, but it is happening to their bodies. “(pp.26)なる主張は確かにある一定の正当性を持つ。しかし、マッキノンはその後、演者の身に起こっていることと演者以外の女性一般の身に起きていることとを混同させながら論を進めていく。また、ドウォーキンの主張、ポルノにおいて起こっていることがすなわちそのまま女性一般の身に起こっていることであるというのは本当であろうか。マッキノンやドウォーキンのロジックを使って例えばこの映画を規制することは正当であるだろうか。

 マッキノンは、ポルノが現実と等しく経験に代わることによって男性に性的興奮を与えているとも述べる。男性はポルノを見て勃起し、レイプをするのだと主張する。しかし、マッキノンのような、男性は男性役のみに、女性は女性役のみに感情移入をするという主張が正しいとするならば、『アデル、ブルーは熱い色』における女性間の性行為シーンには、男性は感情移入ができず、したがって性的興奮も得ないことになってしまう。また、勃起して性行為シーンを再現しようと試みるにしても、そもそも再現しようがない。マッキノンのロジックを用いたままこの映画を規制しようとすることは矛盾している。

 バトラーはこのような、ファンタジーと表象と行為の間に連続な因果関係を見出すやり方に反論している。

 

There is, then, strictly speaking, no subject who has a fantasy, but only fantasy as the scene of the subject’s fragmentation and dissimulation ; fantasy enacts a splitting or fragmentation or, perhaps better put, a multiplication or proliferation of identifications that puts the very locatability of identity into question. (pp.110)

 

Here again there is no interpretive leeway between the representation, its meanings, and its effects ; they are given together , in one stroke - as it were - as an instantaneous teleology for which there is no alternative. And yet, if this were true, there could be no analysis of pornography. Even from within the epistemological discourse that Dworkin uses, one which links masculinity with agency and aggression, and femininity with passivity and injury, her argument defeats itself. (pp.113)

 

女性がそのような表象を観ること自体が中傷を呼び起こし、視聴者はその視覚的暴力の受動的受容者となってしまうのならば、女性が批判的分析をする余地はあらかじめ排除されてしまう。また、バトラーは”Prohibitions work both to generate and to restrict the thematics of fantasy.”とも述べる。性的な場面を禁止することは、同時に生産である。この生産は、排除の原則のもとに、想像可能性を規制してしまう。

 具体的に、『アデル、ブルーは熱い色』に話を戻すと、『アデル、ブルーは熱い色』の性行為シーンを規制してしまうことは、その性行為シーンの想像可能性を規制してしまう。禁止することで、本作の女性間の性行為シーンは、男性がマスターベーションに用いる”LESBIAN FUCKIN SCENE”との解釈に限定されてしまうのだ。

 以上『アデル、ブルーは熱い色』を通して見てきた通り、性的表現を禁止してしまうことそのものが一つのファンタジーであり、性行為シーンの読解の仕方を限定してしまう。ある映画をNC-17にしてしまうことで、例えばレア・セドゥが自身の体以上に感情を表現しようとした試みは弱められ、その性行為シーンは「不適切で卑わいな」性行為として強制的に矮小化されてしまう。「ポルノ規制」をすることには問題があるであろう。

 しかし、演者自身が実際に性行為を演じ、そのことによって苦痛を感じたと主張していることも事実である。作品に対する多様な読みが可能となったとしても、その事実は残されたままだ。規制とは別の形をとって、作品の制作という場面において俳優、特に女性の俳優の立場、待遇について議論していくことは必要であろう。

 

 

参考文献

 

  • MacKinnon, Catharine A. Only Words. Harvard University Press, 1993. Chapter 1.
  • Dworkin, Andrea. “Against the Male Flood: Censorship, Pornography, and Equality”. Drusilla Cornell ed. Feminism and Pornography. Oxford University Press, 2000. pp. 19-38.
  • Butler, Judith. “The Force of Fantasy: Feminism, Mapplethorpe, and Discursive Excess.” differences 2.2 (1990): pp. 105-125.
  • blue is the warmest color LESBIAN FUCKIN SCENEhttp://www.xvideos.com/video6542162/blue_is_the_warmest_color_lesbian_fuckin_scene)2017年1月22日閲覧