black diary

にゃーん

映画『不屈の男 アンブロークン』における歪んだジェンダー観

  1. 序論

 『不屈の男 アンブロークン』(Unbroken, 2014年)は日本軍による俘虜の虐待を扱った映画として、日本でも話題となった作品である。日本軍の残虐性を無闇に誇張する「反日」的な作品であるとして、上映中止を求める運動が起こったくらいである。だが実際には、これらの右翼的な議論は拙劣なものであり、真剣に取り合うべき代物ではなかった。しかし、それらの議論とは別の視点---特にジェンダー論的視点---から見て、この『不屈の男 アンブロークン』はイノセントであるとは言い難い、差別的な問題をはらんだ作品であったことは指摘されなければならないであろう。

 本映画は日本軍の犯した俘虜への虐待という罪を、ワタナベの男性性の「欠如」という”sin”にすり替え、あまつさえその”sin”を西洋的な「正しい」男性性の体現者、キリストの姿と結びつけられたルイに断罪させるという構図を展開しているのである。以下、本論で詳しく論じていく。

 

  1. 本論

2.1 ルイ

 主人公ルイの生い立ちは映画の前半で語られる。ルイはイタリア系の出自を持ち、かつてはそれが原因でいじめられていた。彼は隠れて酒を飲み、補導されることすらあった。しかし彼は兄の勧めで陸上を始め、才能を開花させていくうちに周囲にも認められるようになっていく。彼はついに、オリンピックの陸上競技のアメリカ代表選手として選出される。訓練により培われたルイの身体は、俘虜であるルイを虐待するワタナベと対比に置かれる中で、健康的な肉体として男性性・キリスト教的な正しさを次第に重ねられていくこととなる。 ルイが異性愛者であることは、セリフと映像の両方により繰り返し言及される。彼は爆撃機の同乗者に”I ain’t goin to a bar with you “dame magnet”. You confuse all the broads.” という言葉を発する。また、少年時代のルイはベンチの下に隠れて女性の太ももを覗き込もうとする。さらに、捕虜として東京のラジオ局の建物に入る場面で、彼は白いワンピースを着た女性がエレベーターから出てくるのを目で追いかける。

 

2.2 ワタナベ

 

He was a beautiful crafted man, a few years short of thirty. His face was handsome, with full lips that turned up slightly at the edges, giving his mouth a faintly cruel expression. Beneath his smartly tailored uniform, his body was perfectly balanced, his torso radiating power, his form trim. A sword angled elegantly off of his hip, and circling his waist was a broad webbed belt embellished with an enormous metal buckle. The only incongruities on this striking corporal were his hands―-huge, brutish, animal things that one man would liken to pows. (Hillenbrand 236)

 

 上に引いたのは原作の、第23章Monster冒頭の一部である。監督のアンジェリーナ・ジョリーはインタビューにおいて原作のこの部分に触れており、”I think Watanabe was sick but he was very very educated. He was very intelligent. And he was, he’s described in the book as a beautifully crafted monster.”(Universal Pictures 0:14-0:25)と述べている。「美しい男」ワタナベが”sick”であり”monster”である所以はどこにあるのか。映画においてそれは、男性性の「欠如」として描かれている。

 

2.3 ”The Bird”

 俘虜の1人であるミラーはワタナベについて、”Apparently, he grew up wealthy, spoiled. Wanted to be an officer. Expected to be, too. Was denied. A great humiliation for him, not making the grade.”という分析をしている。ワタナベはofficerでなく下士官、伍長でしかないことにコンプレックスを抱いている。更に、映画ラストで明かされるのだが、ワタナベの父は海軍将校である。彼は父のような男になれない屈辱に苛まれている。彼は父権制の中で男性性としての階級を得ることのできないのである。

 また、俘虜たちによりワタナベにつけられた”The Bird”という、史実上の渡邊もまた同じように呼ばれていたあだ名自体が多分に示唆を含んでいる。birdという単語を調べると、Oxford English Dictionaryには”d. A maiden, a girl.  [In this sense bird was confused with burde, burd n., originally a distinct word, perhaps also with bryd(e  bride n.1; but later writers understand it as fig. sense of 1 or 2.) In mod. (revived) use: a girl, woman (often used familiarly or disparagingly) (slang).”とあり、また用例一覧を見ると俗語としての意味はWWII時にはすでに使われていたようである。史実においてこのあだ名が選ばれた理由については断じることはできない。しかし映画において、以下に続けて挙げていくワタナベの男性性の欠如としての描写を意識した時、これは象徴的な名付けである。俘虜の1人であるハリスの言う”the names we’d like to call him”とは、彼が(男性らしさを欠いているという消極的な、差別的な意味において)「女性的」であること、もしくは、彼が誰かの”girlfriend”になりうるような特質を持つ者であるということをより直接的に示すような呼び名なのであろう。

 

2.4 竹刀、シンデレラ劇

 柔らかな物腰を、欠けた男性性を補うようにワタナベは竹刀を振りかざして捕虜達を虐待する。この竹刀はファリックなシンボルである。原作には渡邊が軍刀を持っている描写と竹刀を持っている描写の両方があるのだが、映画においては竹刀を持っている姿しか映し出されない。むしろ、彼が持っている竹刀は軍刀ではないということが強調されている。

 このことは劇中劇として挿入される、俘虜たちが演じるシンデレラ劇の場面において説明される。観客のルイが画面向かって左側に目線をやると、次のカットではその視線の先に立つ軍人2人が映される。同じカット内でカメラは説明的に上から下へ、顔から腰へと動く。腰には軍刀が下げられている。そして舞台を映すカットが挟まったのち、今度は観客席最後列に並ぶ日本軍人たちが前から映されるカットが入る。着席している中でもさらに後ろに立って並んでいる軍人たちの中でも、少なくとも腰が映っている者はみな軍刀を持っていることが確認できる。しかしワタナベは軍刀でなく竹刀の上に両手を置いている。その場において明らかに軍刀を所持していないのはワタナベ1人だけである。この演出により彼の握りしめる竹刀の、持ち得ない「男性器」の代替物としての象徴性がさらに高められている。

 また、俘虜たちの女装劇は衣装・セリフ・身振りなどにより滑稽さを強調しているが、かなり蔑視的なものといえよう。不完全な女装はジェンダー分割を正当化し、境界を侵犯することはできないとの言説を強化する。さらに、その規範から外れた「恥ずかしい男」を笑い者にする。このシンデレラ劇を背景に、クィア・ワタナベはルイの隣に腰掛けて自らの昇進を報告する。劇中劇という装置により間接的に笑い者にされているのは、「恥ずかしい男」ワタナベであるのに。

 

2.5 競争の場面

 ワタナベはオリンピック選手であるルイに目をつけ、日本兵と競争するように命じる。しかし、体を弱らせていたことが誰の目にも明らかなルイは当然のように日本兵に敗北する。そこでワタナベはゴールに倒れこんだルイを覗き込み、”You fail. You are nothing.”と言う。スポーツ選手としての(現在は痩せ衰えているが潜在的には)健康的な肉体、男性らしさを持つルイに「嫉妬」して彼を敗北させることで、ワタナベは自らの男性性の欠如を間接的に否定しようとしている。

 

2.6 夜這い

 ある晩ワタナベが薄暗い俘虜宿舎に突然現れてルイに鞭を振るう。かと思うと、出血する傷口にガーゼを差し出してルイを困惑させる。”Why do you make me hit you?”とルイに問いかけるワタナベは再びルイを殴りつけ、失神させる。ちなみにワタナベが鞭を構える時、鞭は彼の股間から垂れ下がっているようにも見える。この鞭もまた、竹刀と同じように男性器のメタファーである。

 この矛盾に満ちたワタナベの言動を精神分析学的に分析してみると以下のようになる。無意識のイメージを構成するtopological、そしてdynamicな要素の組み合わせを通じ、作品・テクストにおける矛盾した要素の共存の底を覗き込むことで暗部の揺らぎが垣間見えるのだ。

 Topologicalな要素として、この場面は薄暗い宿舎、暗所において展開されることがあげられる。(概して無意識のイメージは下方、周辺、暗所、未知領域、具体的には地下室、秘境、クローゼットなどといったイメージにより表象される。)また、dynamicな要素として、ワタナベのルイに対する暴力、つまり抑圧作用と噴出のイメージがあげられる。そしてワタナベの行動は二点において矛盾している。暴力を振るっておいてガーゼを差し出す。殴ってくれだなんて頼んでもいないのに、なぜ私に殴らせるのかなどという理不尽な問いかけをする。

 ここから見えてくるワタナベの暗部とはどのようなものであるか。彼のsuper egoは「男性らしく振る舞え」というもの、egoは「男性らしく振る舞うための階級が与えられていない」というものである。では、彼のidにはどのような欲望が渦巻いているか。

 ここで、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」を踏まえ、欲望の主体「S」(Subject、ワタナベ)、欲望の対象・目標「O」(Object、ファルス)そして欲望を媒介する他者(Mediator、ルイ)の三者が成す三角関係を見てみる。

 

図 1

 

ルイは既にファルス/異性愛的な欲望/健康的な肉体/階級を所有している(少なくともワタナベは意識のどこかのレベルでそのように思っている)。ワタナベがファルスを欲望するとき、それは、ファルスに内在する性質のためではなく、ルイがファルスを所持しているからである。ワタナベがファルスに”to have”の欲望を向けるとき、同時に彼はルイに対して”to be”の欲望を向けている。これはジェンダー批評的に解釈すれば、homosocialの欲望と言える。

 そこで、ワタナベのidにある欲望の候補として、まずhomosocialの欲望が挙げられる。敵国の軍人であるルイと仲良くなりたいというものだ。俘虜収容所から解放する代わりに日本を礼賛するプロパガンダをしてくれとの提案を拒否したルイが東京のラジオ局から送還されてきた時、ワタナベは”I saw it in your eyes, the first day. I thought, this man will be my friend. But…enemy of Japan… you do not listen. You do not do what is asked of you. “とルイが自分の友となりうる可能性を口にする。だが、ルイは「日本の敵」であると。homosocialの欲望(とその失敗)と読める。しかし、ここで考え直さなければならないことは、欲望は自身で言語化できた時点で既にidの領分には止まってはいないのである。では、未だ言語化されていないワタナベのidの欲望とは一体何なのであるか。

2.7 糞尿汲み取り

 ルイが糞尿を汲み取る時、ワタナベは彼のことを盗み見ている。ルイがワタナベのいる方へ振り向くと、ワタナベは視線を逸らす。これは三島由紀夫の『仮面の告白』からの引用であろう。三島は同作の中で、三島自身に多分に重なる語り手である「私」の同性愛的な欲求が初めて起こった瞬間の様子を以下のように記述している。

 

 坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭いで鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋---糞尿汲取人---であった。彼は地下足袋を履き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とては定かではないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたのであった。それが汚穢屋の姿に最初に顕現したことは寓話的(アレゴリカル)である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを予感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。その欲求には二つの重点があったことが、あきらかに思い出される。一つの重点は彼の紺の股引であり、一つの重点は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明瞭に輪廓付けていた。それはしなやかに動き、私に向かって歩いてくるように思われた。いわん方ない傾倒が、その股引に対して私に起こった。何故だか私には分からなかった。(三島 ページ数)

 

上の引用部分について「私」は、五歳の「私」の記憶に対し精神分析学的な解釈を与えている。「或る暗いふしぎな呼び声」とはつまり無意識からの呼びかけである。また、「私」は母への贈り物としての糞尿についても触れているが、同時に肛門性愛への連想も容易であろう。これは、「彼の下半身を明瞭に輪郭づけ」る紺の股引のイメージとも連絡する。

 映画において、汚穢屋がルイ、「私」がワタナベに重ねられて『仮面の告白』が引用されている。ワタナベの主体形成は肛門期にとどまったまま停止してしまってものとして示唆されている。フロイトの解釈を加えれば、それゆえにワタナベは(カギカッコ付きの)「同性愛者」なのである。

 『仮面の告白』の「私」は『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』欲求について触れているが、これは”to be”の欲望である。ここでは”to be”の欲望が限りなく同性への性的な欲望、同性に対する”to have”の欲望に漸近していく様が描写されている。

 引用先、ワタナベについても似たことが言えるだろう。本来”to be”の欲望と”to have”の欲望は区別されるものである。しかし、ワタナベ(S)→ルイ(M)の辺においては”to be”の欲望と”to have”の欲望、つまりhomosexualな欲望が奇妙に絡み合っている。「ワタナベがルイのことを愛していた」描写があるとは言えないが、ワタナベの残虐かつ奇妙な行動にクィアな欲望が絡んでいることは明白であろう。

 

2.8 「赦し」

 クライマックスにおいてワタナベは、ルイに木材を持ち上げるよう命令し、彼がそれを落とせば射殺せよと部下に言いつける。しかしルイは屈せずに木材を持ち上げ、ワタナベは”Don’t look at me!”と泣き叫び膝を折る。木材を持ち上げるルイの姿は、周囲の俘虜たちに無言のうちに見つめられる中で、磔にされたキリストの姿に重ねられる。

 おそらく製作者は、作中繰り返し出てくるキリスト教的な教訓に準ずる人間、つまり暴力で応じるのではなく、赦し、耐えることにより困難に打ち勝つ人間としてルイのことを描きたかったのであろう。しかし、以上で指摘してきたように、ここまでワタナベは男性性が欠如していることにより問題を抱える人物として描かれているのである。それを踏まえると、最終的に映画が提示した構図は、男性性の欠如にコンプレックスを抱く、それこそクィアなワタナベに、異性愛者・ルイが、重い木材を持ち上げられるだけの健康な肉体・男性性を誇示することで勝利するというものである。さらに追い討ちをかけるように、米軍基地でマラソンをする上半身裸のルイという映像がルイの記憶として画面にオーバーラップする。この決定的な瞬間まで、ワタナベのクィア性がどのように評価されるかという可能性はまだ開かれていた。しかし結局映画が示した結末は、ワタナベのクィア性に対する断罪という矮小な枠組みにとどまるのみであった。

 さらに言えることは、異性愛規範が守られる「正しい」世界が西洋/アメリカ、クィアで「誤った」世界が東洋/日本に、結果的にではあるがマッピングされてしまったということだ。これでよくも「対立していた全ての国々に橋をかける」などと言えたものである。映画が成し遂げたことは結局「赦し」を与えると言いながら、その「赦し」がその中で機能するための異性愛規範を西洋の他者としての日本人(を代表して映されるワタナベ)に押し付けたということだ。

 

2.9 家族写真

 ルイはワタナベの部屋に入る。部屋にはワタナベの私物がいくつか残されている。その一つは竹刀だ。ワタナベはファリックなシンボルを手放した。つまり、ルイにより去勢された。

 また、棚の上には「家族写真」が置いてある。座り込んだルイはそれをじっと見つめる。「家族写真」においてもワタナベとルイは対比されている。ワタナベの「家族写真」にはワタナベとその父と思われる海軍将校しか写っていない。一方、既出であるルイの家族写真には祖父、父母、子供達が揃っており保守的に理想的な家族像を演出している。一旦はルイが戦死したものとして通知されたことにより家族は離れ離れになるものの、最後にルイが帰還して家族に抱擁される場面が映される中で再び家族像は完全なものへと戻りその円環を閉じる。映画は後日談を語る。彼は1946年にシンシア・アップルホワイトという女性と出会って結婚し、娘のシシーと息子のルークをもうける。物語は異性愛体制の範疇に舞い戻り、幕を閉じる。

 

 

  1. 結論 

 ワタナベの特性は権力の、男根の「欠如」として描き出されるが、彼のクィア性をより、ポジティブな形で捉えることができたのならまた違った結末を用意できたかもしれない。アンジェリーナ・ジョリーがインタビューで説明したようにワタナベが実際に「美しい男」としてかたちづくられたキャラクターである理由も、彼のクィアさによるところが大きいであろう。また、ルイの生い立ちも「アメリカ」から見てある意味他者性を帯びているということは指摘に価する。彼の身体にマッチョな規範を投影せずに、キリスト教的な「赦し」のテーマを描くことはできなかったのだろうか。

 『アンブロークン 不屈の男』はクィア性への魅力へとあと一歩近づけず、異性愛規範を出ることのできなかった作品である。キリスト教的な「赦し」自体は優れたテーマとなりえたであろう。しかし、無意識のうちに異性愛に優位を認める、映画の自惚れたバイアスがそのテーマを歪めてしまったと結論せざるをえない。

 

 

参考文献

 

"bird, n." OED Online, Oxford University Press

http://www.oed.com/view/Entry/19327?rskey=rchGsJ&result=1&isAdvanced=false (最終検索日:2017/7/6).

Laura Hillenbrand (2010) Unbroken: A World War II Story of Survival,

Resilience, and Redemption, Random House Trade Paperbacks

Universal Pictures (2017) Unbroken – Featurette: “Miyavi” (HD)

https://www.youtube.com/watch?v=h2eqUEOl8o8&feature=youtu.be(最終検索日:2017/7/5)

三島由紀夫 (2006) 『仮面の告白』, 新潮文庫